HEART ALIVE WORLD — NOVEL
PROLOGUE
Japanese Edition
Heart Alive World I
The Road That Wasn’t There
― 昨日まで存在しなかった道 ―
Prologue
Chapter1
聞こえない音
セレーネは、森が静かなことには慣れていた。けれど、その朝の静けさは少し違っていた。
彼女は足を止めた。少し前を歩いていた三人は、すぐには気づかなかった。シアンは木々の間から見える空を眺めながら歩いている。ミレルは肩にかかった布を直し、ケイルは相変わらず、道ではなく道の外側を見ていた。
風は吹いている。葉も揺れている。枝同士が触れ合い、乾いた音を立てていた。少し遠くでは小鳥が鳴き、さらにその向こうから水の流れる音も聞こえる。だから、静かなわけではない。
それでもセレーネには、何かが欠けているように感じられた。
彼女はゆっくり顔を上げた。鹿の耳が、かすかに動く。
「……セレーネ?」
ミレルが振り返った。
セレーネは答えず、目を閉じる。風。葉。鳥。水。シアンの靴が土を踏む音。ケイルの腰についた金具が触れ合う小さな音。ミレルの衣服が風に揺れる音。全部ある。
なのに。
「何か聞こえる?」
ミレルが少し声を落とした。
セレーネは目を開いた。
「逆かも」
「逆?」
「何かが……聞こえない」
ケイルが振り返った。その顔には興味と、わずかな可笑しさが半分ずつ浮かんでいた。
「それは難しいね」
「何が?」
「聞こえないものを探すのは」
セレーネはケイルを見る。
「そうでもないよ」
「へえ」
「いつも聞こえるものなら」
ケイルの表情から、少しだけ冗談が消えた。シアンも戻ってくる。
「何がいつも聞こえる?」
セレーネは答えようとしたが、うまく言葉にできなかった。
森には、森の音がある。鳥や風のことではない。もっと曖昧なものだ。木々の密度。地面の柔らかさ。風が抜ける幅。遠くで生まれた音が、どれほどの時間をかけて返ってくるのか。そうしたものが重なり合って、その場所にしかない響きをつくっている。
セレーネはそれを説明しようとはしなかった。言葉にしてしまうと、別のものになってしまう気がしたからだ。
「昨日までの森と違う」
その言葉に、ケイルが反応した。
「昨日?」
「うん」
ケイルは少し首を傾ける。
「面白いこと言うね」
「何が?」
「俺、昨日ここを通った」
シアンの視線がケイルへ移った。
「ここ?」
「この辺り。もう少し南だったかもしれないけど、まあ大した違いじゃない」
「何か変わってた?」
ミレルが尋ねる。
ケイルは周囲を見回し、肩をすくめた。
「今のところ? 木がある。土がある。虫がいる」
「役に立たないね」
「正確な報告だよ」
ミレルが笑った。ケイルは何事もなかったように歩き始め、セレーネもその後を追った。
けれど数歩進んだところで、再び足を止めた。
今度は、聞こえた。
ほんの一瞬だった。
セレーネは振り返る。誰も何も言わない。三人は普通に歩いている。気のせいだったのかもしれない。そう思い、もう一度耳を澄ませる。
風。葉。鳥。水。
そして――音。
セレーネの胸の奥が、わずかに震えた。
高い音ではない。低くもない。楽器の音にも聞こえなかった。石を叩いた音とも違う。一つの音というより、遠くで何かが何かに触れ、その震えだけが地面や木々を伝ってここまで届いたような感覚だった。
一音。
それだけだった。
セレーネが立ち尽くしていると、今度はシアンも気づいた。
「聞こえた?」
「……うん」
「何が?」
少し迷ってから、セレーネは首を横に振った。
「分からない」
ケイルが戻ってきた。
「どの方向?」
その質問に、セレーネは少し驚いた。普通なら「何の音だった?」と聞くだろう。けれどケイルは「どこから来た?」と聞いた。
セレーネは目を閉じ、音そのものではなく、音が消えた後に残った感覚をたどる。
「……あっち」
森の奥を指した。
ケイルがその方向を見る。
「そっちは街道じゃない」
「うん」
「沢も違う方向だ」
「うん」
ミレルがセレーネの隣へ立った。
「行く?」
セレーネは答えなかった。代わりにシアンが森の奥を眺め、少しだけ考えてから笑った。
「ちょっとだけ」
ケイルがため息をつく。
「その“ちょっとだけ”で予定通り戻れたこと、一度でもある?」
「あるよ」
「いつ?」
シアンはしばらく考えた。
「……それは覚えてない」
ミレルが笑い、セレーネもつられて笑った。
その瞬間だった。
風向きが変わった。
森の奥から強い風が吹き抜け、木々の上部が一斉に揺れた。セレーネは反射的に髪を押さえる。
おかしい。この地形なら、風は反対側から来るはずだった。
ケイルも気づいたらしい。先ほどまでの軽い表情が消えている。シアンは風を正面から受けながら森の奥を見つめ、ミレルは腕を抱くようにして自分の肩をさすった。
「冷たい……」
気温は、それほど低くなっていない。だから彼女が言っているのは温度のことではないのだろうと、セレーネには分かった。
そして、もう一度。
――音。
今度は少しだけ長かった。一音。その向こうに、もう一つ。とても遠く、細く、かろうじてつながっている。旋律と呼ぶには短すぎる。それでも偶然と呼ぶには、整いすぎていた。
セレーネは歩き出した。
「セレーネ」
シアンの声が背中に届いたが、止まらなかった。
木々を抜け、枝を避け、足元の根を越えていく。どこから聞こえているのかは分からない。ただ、方向だけは分かった。森の奥へ。さらに奥へ。
しばらく進むと、木々の密度が少しずつ変わり始めた。枝葉の隙間が広がり、地面へ届く光が増えていく。セレーネが速度を落としたところへ、三人の足音が追いついてくる。
「待って」
ケイルが言った。
彼は前へ出てしゃがみ込み、土の上を指でなぞった。そこには苔があり、枯葉があり、細い草も生えている。一見すれば、どこにでもある森の地面だった。
けれどケイルは何枚かの枯葉を払い、その下に隠れていたものを露わにした。
石だった。
人の手で切り出された、平らな石。一枚ではない。二枚、三枚。その先にも、森の奥へ向かって並んでいる。
ケイルはしばらく黙っていた。セレーネは彼の横顔を見る。冗談を言うときの顔ではなかった。
「知ってる?」
シアンが尋ねる。
ケイルは答えず立ち上がると、数歩先へ進み、さらに枯葉を払った。また石。その先にも、その向こうにも。
古い石畳が、森の中を真っ直ぐに伸びていた。
シアンの目がわずかに明るくなる。一方、ミレルは不安そうにその道を見つめていた。
セレーネには、また音が聞こえた。
今度は、その道の先からだった。
ケイルがゆっくり振り返る。
「昨日」
誰も返事をしなかった。
「俺はここを通った」
彼は足元の石畳を見下ろし、それから森の奥へ続く道を見る。
「これはなかった」
風が吹いた。古い道の上を、枯葉が一枚、二枚とゆっくり奥へ滑っていく。
まるで、その道自身が先へ進めと言っているように。
セレーネはその先を見つめた。
そして、また聞いた。
今度は確かに。
一音。
少し遅れて、もう一音。
何かが、こちらの音を待っている。
そんな気がした。
Chapter2
昨日まで存在しなかった道
ケイルは、自分の記憶をそれほど信用していない。
人は見たいものを見るし、覚えたいように覚える。酒場で「絶対にそうだった」と言い切る者ほど、たいてい話の半分くらいは怪しい。だから彼は、記憶ではなく痕跡を見る。踏まれた草、泥のつき方、錆びた蝶番、靴底の減り、財布をしまう前に一瞬だけ泳いだ目。言葉は嘘をつく。人も嘘をつく。だが、仕組みは比較的正直だ。
ケイルは足元の石畳を見下ろした。苔に覆われ、石と石の隙間からは細い草が伸びている。表面には何年も雨に打たれたような細かな傷があり、一部は地面へ沈み込んでいた。
古い。少なくとも、今朝造られたものではない。
それだけは間違いなかった。だからこそ、気に入らない。
「昨日はなかったんだよね?」
ミレルがもう一度確認した。
「なかった」
「絶対?」
「絶対って言葉は好きじゃないけど」
ケイルはしゃがんだまま、指先で石の縁をなぞった。
「これは見落とさない」
シアンが少し先へ歩く。
「道そのものを?」
「それもある。でも、もっと分かりやすいものがある」
「何?」
「地形」
ケイルは昨日通った経路を頭の中で組み直した。倒木。沢。少し傾いた大きな樫。その先の岩と、小さな窪地。自分はその窪地を避け、北側へ抜けた。今日も樫はある。沢もある。倒木もある。つまり、自分が別の森へ迷い込んだわけではない。
なのに、その間を縫うように石畳が存在している。
「昨日は、この辺りに木があった」
ケイルは道の右側を指した。
「どの木?」
「知らないよ。木に名前つけて歩いてないから」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
ケイルは少し笑ってから、森の奥へ視線を戻した。
「でも、少なくともこんな幅は空いてなかった」
道は二人が並んで歩く程度ではない。荷車でも通れそうなほど広く、それが森を真っ直ぐに切っている。以前から存在していたなら、周囲の木々の生え方も違うはずだった。
ケイルは道の端へ歩き、石畳すれすれに生えた一本の若い木を軽く叩いた。
「こいつ、たぶん二十年か、それ以上ここにいる」
ミレルが木と道を見比べる。
「でも石畳の方がもっと古そう」
「そう」
「じゃあ普通じゃない?」
「普通ならね」
木の根は石を避けるように伸びている。石畳が先にあり、その後に木が育ったようにしか見えない。ならば、この道は何十年も前から存在していたことになる。
しかし昨日はなかった。
二つの事実が、同時に成立している。
ケイルは眉を寄せた。こういうものは嫌いではない。むしろ好きな方だった。ただし、それは安全な場所から眺めている場合の話だ。
「戻る?」
ミレルの声には冗談がなかった。
シアンは道の先を見ている。
予想通りだった。
ケイルは思わず笑った。
「何?」
「いや。どうせ戻る気ないんだろうなと思って」
「まだ決めてない」
「そういう顔してないよ」
「どんな顔?」
「面倒なものを見つけて嬉しそうな顔」
ミレルが小さく吹き出した。シアンは少し考えてから、否定しなかった。
「ちょっとだけ見よう」
「ほら」
「道がどこへ続くか確認するだけ」
「“確認するだけ”も追加されたね」
セレーネは会話に加わらず、道の奥を見つめていた。鹿の耳が時折ごく小さく動いている。彼女にはまだ何かが聞こえているらしい。
ケイルには何も聞こえない。それも気に入らなかった。誰か一人だけが知覚できるものは、情報として扱いづらい。セレーネを疑っているわけではない。むしろ問題は逆だ。彼女が本当に聞いているのなら、それを聞かせている何かが存在する。そして、それがセレーネを選んでいるのか、単に彼女だけが聞き取れるのかで意味が変わる。
「セレーネ。その音、近づいてる?」
「分からない」
「大きくなった?」
「それも、あまり」
「一定?」
セレーネがケイルを見る。
「質問多いね」
「仕事柄」
「何の仕事?」
「いろいろ」
「怪しい」
ミレルが言う。
「失礼だな」
「否定しないんだ」
「否定する材料がない」
シアンが笑った。わずかに空気が緩む。悪くない、とケイルは思った。緊張していると、人は余計な判断をする。
四人は道へ足を踏み入れた。
最初の数十歩は、何も起きなかった。
ケイルは意識して歩幅を変えながら周囲を観察する。石畳の幅、木との距離、苔の状態。排水のためなのか、道の中央がわずかに高く、両端には浅い溝がある。
ただ石を並べただけではない。これは交通路だ。しかも、かなり丁寧に造られている。
「荷車用かな」
シアンが言った。
「たぶん」
「でも轍がないね」
ケイルは彼を見る。
「よく見てる」
「褒めた?」
「珍しく」
確かに轍がない。これほど古い街道なら、長期間使われた跡が残ってもいい。ところが石の中央に大きな摩耗はなく、馬具の破片も見当たらない。
道として造られたのに、使われていない。
あるいは、人間が考えているような使われ方をしていない。
森が少しずつ暗くなってきた。
空は明るい。それなのに、道の周囲だけ光が薄い。ケイルが上を見ると、枝葉の隙間から青空は見えている。
「変だな」
「何が?」
「暗い」
ミレルも上を見た。
「雲じゃないね」
「うん」
シアンが立ち止まる。
しばらく四人とも黙った。
聞こえるのは、自分たちの足音と風だけだった。
いや。
ケイルは気づいた。
鳥がいない。
さっきまで森のあちこちにいたはずだ。鳴き声だけではない。枝から枝へ移る小さな影も見えない。虫の音まで減っている。
「セレーネ」
言う前に彼女もうなずいた。
「私も気づいた」
「どこから?」
「たぶん少し前から」
ケイルは来た道を見る。石畳は森の奥へ続いている。特に何もいない。
「引き返す目印、つける?」
ミレルが言った。
「つけてる」
三人が一斉にこちらを見る。
「いつ?」
「さっきから」
ケイルが道脇の木を指す。よく見なければ気づかない位置に、小さな切り傷が入っている。少し先の木にも、その先にも。
シアンが笑った。
「信用してない?」
「何を?」
「道を」
「道を信用する人間っているの?」
「普通はある程度するんじゃない?」
「だからみんな迷うんだよ」
ミレルが呆れたように笑った。
しばらく進むと、道は緩やかに下り始めた。森の地面には起伏があるが、不思議なことに石畳だけはほとんど一定の勾配を保っている。自然の地形に沿っているのではない。
地形の方を、道へ合わせている。
造った者には相当な技術があった。そして、かなりの労力を使っている。
何のために?
道は移動のために造る。ならば始点と終点がある。そして、それだけの労力を使う価値のある何かが、その両端にある。
「昨日までなかった道の行き先を調べる」
ケイルは小さく呟いた。
「何?」
「いや。あまり賢い仕事じゃないなと思って」
「帰る?」
ケイルは少し考えるふりをする。
「ここまで来たら行き先は気になる」
「同意見」
「だから面倒なんだよ」
そのとき、セレーネが止まった。
彼女は道の左側を見ている。
ケイルも視線を向けた。最初は何も見えなかった。木、草、岩。だが少し奥に、森には似合わない直線がある。
ケイルは道から外れ、蔦を横へ払った。
そこにあったのは、石だった。
ただの岩ではない。地面から垂直に立つ、人の背丈より高い細長い石柱。表面は黒ずみ、上部の一部が欠け、半分ほどが蔦と苔に覆われていた。
「何?」
シアンも近づく。
「柱」
「それは見れば分かる」
「分かるなら聞かないでよ」
ケイルはしゃがみ込み、柱の根元を調べる。
「これも古い」
「道と同じくらい?」
「分からない。でも今日置かれたものじゃない」
シアンが柱を見上げた。
「文字?」
表面に何かが刻まれている。ケイルが苔を少し払うと、浅い溝が現れた。文字にも、模様にも見える。円と線、その組み合わせ。
「読める?」
「読めたら驚く」
「何かに似てる?」
「それを考えてる」
どこかで見たような気もするが、思い出せない。商人の印ではない。Valeriaの道路標識とも違う。宗教紋章にも見えなかった。
装飾にしては規則的すぎる。
機能がある。
美しく見せるための線ではない。何かを示している。あるいは、何かを動かすためのもの。
「触らない方がいいと思う」
ミレルが静かに言った。
「同感」
「珍しいね」
「俺を何だと思ってる?」
「触る人」
「触らずに調べるのが一番いいんだよ」
シアンが柱へ少し近づく。
「二番目は?」
「誰かに触らせる」
「なるほど」
シアンが後ろへ一歩下がった。
「俺を見ないで」
ケイルが笑った、そのときだった。
セレーネが急に顔を上げる。
「来る」
「何が?」
返事はなかった。
風が止まった。
完全に。
葉の揺れが消え、森全体が息を止めたように静まる。ケイルは反射的に双剣の柄へ手を置き、ミレルも身構えた。シアンは斧へ手をかける。
セレーネだけが動かなかった。
柱を見つめている。
そして――音がした。
今度は、ケイルにも聞こえた。
低く、ごく小さな音。石の内側から響いたような、一度だけの音。
四人は誰も口を開かなかった。
先ほどまでただの溝にしか見えなかった模様の一部に、ごく薄い光が宿っている。青でも白でもない。夜明け直前の空のような淡い光。
ほんの一瞬だった。
すぐに光は消え、風が戻る。葉が揺れ、森の遠くで鳥が一羽だけ鳴いた。
「……今のは?」
「見た」
シアンが答えた。
ケイルは黙ったまま柱を見る。
昨日ここを通ったという自分の記憶より、今、目の前で起きたことの方が理解できない。
「この先にもあると思う?」
シアンに聞かれ、ケイルは道の奥を見る。
木々の向こうに、ほんの少しだけ同じような直線が見えた。一本。そのさらに先にも。
石柱が、一定の間隔で並んでいる。
「あるね」
セレーネが道へ戻った。今度は彼女の顔にはっきりとした戸惑いが浮かんでいる。
「どうした?」
「さっきまで、あっちから聞こえてた」
「あっちって、道の先?」
セレーネはうなずく。
「でも今は違う」
「どこ?」
しばらく沈黙した後、彼女は目の前の石柱を見る。
「ここ」
ケイルはもう一度柱を見た。光はない。音もしない。ただの古い石にしか見えない。
昨日まで存在しなかった道。何十年も前からそこにあったような石畳。長い時間を経た木々。そして、音に応える柱。
すべてが矛盾している。
ケイルはこういうとき、一つずつ嘘を消していく。
誰かが道を造った――時間が足りない。
自分が昨日ここを通っていない――地形が一致している。
幻覚――四人が同じものを見ている。
となれば、残った可能性は、どれもまともではない。
シアンが隣に立った。
「どう思う?」
ケイルは少し笑う。
「昨日までは、世界ってもう少し単純だと思ってた」
「そう?」
「少なくとも、道は勝手に増えなかった」
シアンも笑った。その視線はすでに道の先へ向いている。
「行くなら、次の柱まで」
「分かった」
「本当に次の柱までだからね」
「分かったって」
ミレルが後ろから言う。
「二人とも同じこと言ってるよ」
「俺は戻る側だよ」
「そうかな」
セレーネが小さく笑った。
四人は再び歩き始めた。
二本目の柱。何も起きない。三本目も何もない。四本目では風が吹いただけだった。
そして五本目を越えたところで、ケイルは足を止めた。
前方の木々が途切れている。その向こうには空があった。
森の出口。
そう思った。
だが、おかしい。
空が広すぎる。
シアンも気づき、ミレルが息を飲む。セレーネだけが、また耳を澄ませていた。
四人はゆっくりと前へ進んだ。木々の隙間が広がり、光が差し込む。
そして森が終わった。
ケイルは言葉を失った。
目の前に、地面がなかった。
巨大な谷。その向こう、雲の間に何かが浮かんでいる。
街だった。
いや。
かつて街だったもの。
崩れた塔。傾いた橋。空中に取り残された巨大な石の構造物。その一部は雲の中へ沈み、別の一部は谷底へ向かって崩れ落ちている。
誰も動かなかった。
道は、そこへ続いていた。
昨日まで存在しなかった道が、昨日まで見たこともない場所へ。
隣でセレーネが小さく呟いた。
「……聞こえる」
ケイルは彼女を見る。
「何が?」
セレーネは空に浮かぶ廃都から目を離さなかった。
「今度は……歌みたい」
Chapter3
風の温度
ミレルは、寒さにはそれほど弱くない。森の夜も、山道の朝も知っている。雨に濡れたまま火を起こせなかったこともあったし、冬の街道で何時間も風に吹かれたこともある。だから、さっき感じた「冷たさ」が気温ではないことくらい、自分でも分かっていた。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
四人は森を抜けた場所に立ち、谷の向こうに浮かぶ廃都を見ている。誰もすぐには話さなかった。
シアンは目を細め、崩れた塔や橋を順番に見ている。セレーネは少し顔を上げたまま、まだ何かを聞いているようだった。ケイルは驚いていないふりをしている。
ミレルには、それが分かった。
彼は景色を見ているというより、景色の中に答えを探している。そして、その答えが見つからない。それが少しだけ彼を苛立たせている。
「……あれ、本当に浮いてるのかな」
「そう見える」
「崖の向こうに山があって、その上に建ってるとか」
「だったら安心?」
「少しは」
ケイルが口を挟んだ。
「残念だけど、たぶん浮いてる」
「なんで分かるの?」
「あそこ」
彼が指した先、街の下部をミレルは見る。雲の切れ間から、巨大な石の塊が見えている。建物が建っている地面そのものが、下へ向かって細くなっていた。
島。
そう呼ぶ方が近い。
谷の上空に、巨大な石の島が浮かんでいる。
「そんなこと、ある?」
ミレルが呟く。
「昨日までは、ないと思ってた」
ケイルの答えに、誰も笑わなかった。
谷から風が吹き上がり、ミレルの髪が頬にかかる。
まただ。
風そのものは冷たくない。それなのに、胸の奥だけが少し縮む。
「また?」
セレーネが気づいた。
「うん」
「寒い?」
「違う」
「じゃあ?」
聞かれて、ミレルは言葉に詰まった。
人の気持ちなら比較的分かる。怒っている人は、怒っていると言わなくても分かることがある。悲しい人が笑っていても、声の端に残るものを感じることもある。
けれど、これは人ではない。
「なんて言えばいいんだろう。誰もいない部屋に入ったとき、さっきまで誰かが泣いてたみたいに感じることってない?」
ケイルが眉を上げる。
「かなり限定された経験だね」
「ない?」
「なくはない」
シアンは黙ったまま聞いている。
「ここも、ちょっと似てる」
「誰かが泣いてた?」
セレーネが尋ねる。
「そういう意味じゃなくて。何かが残ってる感じ」
風が谷から上がってくる。
今度は、はっきりした。
悲しい。
そう言いかけて、ミレルはやめた。
違う。悲しみだけではない。怖さもある。しかし恐怖だけでもない。
もっと複雑だ。
大切なものを置いていくときのような。二度と戻れない場所を振り返るときのような。
「ミレル?」
シアンの声で我に返る。
「ごめん」
「大丈夫?」
「うん」
答えてから、自分でも少し可笑しくなった。いつもなら、自分が聞く言葉だ。
シアンは問い詰めるでも、心配しすぎるでもなく、ただ返事を待っている。ミレルは少しだけ肩の力を抜いた。
「大丈夫。まだ」
「まだ?」
ケイルが言う。
「そこ拾わなくていいから」
少し笑いが戻った。
その程度のやりとりが、今はありがたかった。
谷の端まで近づくと、道の続きを見つけた。石畳は崖で途切れているわけではなく、縁からさらに数十歩ほど先へ伸びている。しかし、その先には何もない。
まるで、かつてそこに橋があったかのように。
ケイルが縁へしゃがみ込む。
「落ちないでよ」
「落ちる予定はない」
「落ちる人は大体そう言う」
「それ誰の統計?」
「今作った」
ケイルは笑いながら石の端を調べる。シアンも横へ行こうとしたので、ミレルはその服の後ろを掴んだ。
「二人同時に行かない」
「なんで?」
「落ちたら助けられないから」
「落ちないよ」
「だから、その台詞を今ケイルが言った」
シアンは笑って一歩下がった。
こういうとき、二人は少し似ている。違う理由で、同じ方向へ進む。
ケイルは仕組みを確かめたい。シアンは、その先を見たい。どちらも「危ないからやめよう」が最初には出てこない。
セレーネはもっと違う。危険かどうかより、自分に聞こえているものを追っている。
となると、止める人が自分しかいない。
ミレルは少し嫌な予感がした。
「橋だったみたいだね」
ケイルが立ち上がる。
「だった?」
「継ぎ目がある。向こうにも同じ形の基礎が見える」
谷の向こう、浮遊都市に近い側にも小さな石の張り出しがある。距離はかなりある。普通の橋を架けるには長すぎる。
「壊れたのかな」
セレーネが言った。
「壊れた痕跡が変なんだよ」
「どう変?」
「折れたなら、残骸があるはず」
ケイルは谷底を覗いた。深すぎて底はよく見えない。
「まあ、下に落ちてる可能性はある。でも、この端はきれいすぎる」
確かに、崩れたようには見えなかった。石は一定の線で途切れている。切断されたというより、そこから先だけ最初から存在しなかったように。
シアンが道の両側を見る。
「柱は?」
少し離れた場所に、また一本あった。森の中で見つけたものより大きく、苔も少ない。表面の模様もはっきりしている。
反対側にも同じものがある。
二本の石柱が、谷の入口を挟むように立っていた。
セレーネが近づこうとする。
「待って」
ミレルは反射的に言った。
自分でも少し声が強かったと思う。
「ごめん」
「ううん」
ミレルは石柱を見る。
嫌な感じがする。
いや。
嫌という言葉も違う。
近づいてはいけない感じではない。
むしろ逆だった。
近づいてほしい。
そう感じる。
だから怖い。
「どうした?」
シアンが聞く。
「……呼ばれてるみたい」
「セレーネの音?」
「違う。私には音は聞こえない。でも、なんか……」
言葉が続かない。
石柱は光ってもいない。動いてもいない。それなのに、そこへ手を伸ばせば何かが起きる。そんな確信だけがある。
ミレルは一歩下がった。
「触らない方がいい」
「賛成」
ケイルがすぐに答える。
「さっき誰かに触らせるって言ってたのに」
「状況は変わる」
「便利だね」
「柔軟と言って」
シアンが石柱を見ている。
「シアン」
「触らないよ」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしてた顔だった」
「触らないでね」
「分かった」
今回は素直だった。その方が逆に不安になる。
セレーネは石柱の前で目を閉じ、鹿の耳を小さく動かした。
「歌じゃない」
ケイルが聞く。
「さっきは歌って言ってなかった?」
「歌みたいって言った」
「訂正が細かいね」
「大事だから」
セレーネはゆっくり息を吸った。
「いくつかの音がある。遠くで重なってる」
「意味は?」
「分からない」
「方向は?」
「街の方」
「柱から?」
少し間があった。
「それも分からない」
ケイルは何か言いかけて、やめた。
ミレルには分かった。
セレーネは困っている。
聞こえることそのものではない。自分だけが聞こえるものを、三人に説明できないことに。
「分からなくていいよ」
セレーネが目を開ける。
「でも」
「聞こえたことだけ教えて。意味はあとで考えればいい」
セレーネは小さくうなずいた。
それでいい、とミレルは思った。
分からないことを、すぐ分かる形にしなくてもいい。
そのとき、セレーネの顔が変わった。
「待って」
今度は彼女が言った。
全員が黙る。
「何か来る?」
ケイルの手が双剣へ動く。
「違う。音が……止まった」
「全部?」
「うん」
谷から風が吹き上がった。
ミレルは髪を押さえる。
さっきまで感じていた冷たさが、一瞬だけ消えた。
完全に。
その代わりに、別のものが胸の奥へ触れる。
温かい。
ほんのわずかに。
どこか懐かしい。
ミレルは思わず石柱を見た。
模様の一部が淡く光っていた。
「光ってる」
シアンが呟く。
誰も触れていない。セレーネも音を出していない。それなのに光は一本の線からもう一本へ、そして円を描く模様へと少しずつ広がっていく。
反対側の柱も、同じように。
ケイルが一歩下がった。
「これは、あまり良くない気がする」
「珍しく同意」
二本の柱の光が強くなった。
谷の上へ、細い光が伸びる。
一瞬だけ。
空中に線が浮かんだ。
ミレルは息を飲んだ。
道。
そう見えた。
崖から崖へと続く、光の道。
けれど、瞬きをした次の瞬間には消えていた。
静寂が戻る。
ミレルは自分の心臓が少し速くなっていることに気づいた。
怖い。
でも、それだけではない。
もう一度見たい。
そう思っている自分に気づき、さらに戸惑った。
「……今、橋、見えたよね?」
「見えた」
シアンが答える。
ケイルも無言でうなずいた。
ミレルはセレーネを見る。
「聞こえた?」
「ううん。今回は、何も」
その言葉が妙に気になった。
音がしたから光ったのではない。
誰かが触れたからでもない。
では、何に反応したのか。
ミレルは石柱を見る。
さっき自分が感じた温かさを思い出す。
まさか。
そう思ったとき、胸の奥にまた小さな変化が起きた。
光ではない。音でもない。
ただ、分かる。
この場所には、何かが残っている。
壊れた街。途切れた道。誰もいない空。
それなのに、完全には死んでいない。
ミレルは谷の向こうを見る。浮遊都市の一番高い場所に、細い塔が立っている。
その頂上付近で、一瞬だけ小さな光が見えた。
「……あそこ」
三人が同じ方向を見る。
「どこ?」
「塔の上」
しばらく待つ。
何も起きない。
「何か見えた?」
「光」
「柱と同じ?」
「分からない」
また光った。
今度は全員が見た。
遠い街の中。
ほんの一点だけ。
淡い光が点き、消える。
そして、セレーネが息を飲んだ。
「どうした?」
彼女は街の方を見ている。
「今、聞こえた」
「歌?」
セレーネは首を横に振った。
「違う」
「じゃあ何?」
長い沈黙のあと、彼女は確信のない声で言った。
「……返事」
誰も動かなかった。
ミレルは谷の向こうの光を見る。
さっきまで、その街はただの廃墟に見えていた。過去に置き去りにされた場所。誰もいない場所。
けれど、もし今の光が返事なのだとしたら。
そこにはまだ、何かがいる。
あるいは。
何かが、生きている。
谷から風が吹いた。
今度の風は、冷たくなかった。
Chapter 4
応える道
シアンは、分からないものを前にすると少し気分が良くなる。
もちろん、危険が好きなわけではない。崖から落ちたいとも思わないし、正体の分からない古代の装置に触れて焼け死ぬのも御免だった。それでも、自分の知っている世界の外側が突然姿を現したとき、胸の奥に小さな灯りがともるような感覚がある。
目の前には巨大な谷があり、その向こうには空に浮かぶ廃都があった。そして数刻前までただの古い石に見えていた二本の柱が、一瞬だけ谷の上に橋を描いた。
それだけでも十分におかしい。
さらに、遠くの塔が光った。
セレーネはそれを「返事」と呼んだ。
シアンは谷の向こうを見つめた。
「もう一回、起こせると思う?」
ケイルがすぐに答えた。
「その質問が出ると思った」
「聞いただけだよ」
「君の場合、聞いた後に試す」
「まだ試すとは言ってない」
「じゃあ試さない?」
シアンは少し考えた。
「それはまだ決めてない」
「ほら」
ミレルがため息をついた。
「二人とも、今は同じ側にいるように見えるけど」
「俺は慎重な側だよ」
ケイルが言う。
「慎重な人は昨日までなかった道をここまで来ないと思う」
「シアンがいると、自分が慎重に見えるんだ」
「便利だね」
ミレルの言葉に、セレーネが小さく笑った。
シアンも笑ったが、視線は谷から外さなかった。
あの橋は何だったのか。
一瞬だけ見えた光。
本当に橋だったのか。それとも、橋に似た何かなのか。
試すなら、一番小さく試せばいい。
シアンは足元を見た。
「石、投げてみようか」
三人がこちらを見る。
「橋があった場所に」
ケイルは少し考え、うなずいた。
「それくらいなら」
シアンは小石を一つ拾った。手のひらに収まる程度の石だ。
谷の縁から数歩下がり、さっき光の道が現れた場所へ軽く投げる。
石は弧を描いた。
そして、そのまま落ちた。
何にも触れない。
谷底へ吸い込まれ、すぐに見えなくなる。
「ないね」
ミレルが言った。
「ない」
シアンは答えた。
ケイルが柱を見る。
「さっきと今で違うものは?」
「光ってた」
「それは結果」
「風?」
「たぶん違う」
セレーネが静かに言った。
「音が止まった」
全員が彼女を見る。
「その直後だったよね」
ミレルが言う。
セレーネはうなずいた。
「でも私、何もしてない」
「何か聞いてただけ?」
「うん」
シアンは二本の石柱へ目を向けた。
森の中で最初の柱が反応したとき、セレーネは音を聞いていた。その後、この場所では彼女が「歌みたいなもの」を聞いた。やがて音が止まり、柱が光った。
そしてミレルは、その直前に何かを感じていた。
もちろん、つながっているとは限らない。
つながっているように見えるだけかもしれない。
シアンはそれを口にした。
「順番をもう一度見てみよう」
ケイルがこちらを見る。
「何の?」
「起きたこと」
シアンは指を折った。
「最初にセレーネが音を聞いた。森の柱が光った。ここへ来て、ミレルが何かを感じた。そのあとセレーネの音が止まって、二本の柱が光った。それで橋が見えた」
「それだけ聞くと、俺たちが何かしたようにも聞こえるね」
「でも何をしたか分からない」
「そこが問題」
ケイルが言った。
シアンはうなずいた。
分からないなら、分かっているところだけ試せばいい。
「セレーネ。さっきの音、思い出せる?」
「音そのもの?」
「うん」
彼女は少し困ったような顔をした。
「たぶん」
「楽器で出せる?」
セレーネは背中の楽器へ目をやった。
それから、谷の向こうの街を見る。
「同じ音になるかは分からない」
「同じじゃなくてもいい」
「いいの?」
「何か起きるか確かめたいだけだから」
ケイルが口を挟んだ。
「何も起きない可能性も記録しておこう」
「そういうの好きだね」
「起きなかったことも情報だから」
シアンは笑った。
「じゃあ、それで」
セレーネは少し迷った後、楽器を手にした。
細身の木管楽器を組み、指先で確かめる。彼女の表情が変わった。先ほどまでの戸惑いが薄れ、代わりに静かな集中が現れる。
ミレルが一歩下がった。
ケイルも柱から距離を取る。
シアンも同じようにした。
「いつでも」
セレーネが目を閉じた。
息を吸う。
谷から吹き上がる風が、彼女の長い髪を揺らした。
そして、一音。
澄んだ音が空へ伸びた。
強くはない。
長くもない。
ただ一つの音が、谷の上を渡っていく。
誰も話さなかった。
音は遠ざかり、やがて消えた。
何も起きない。
柱も光らない。
街も変わらない。
ケイルが小さく息を吐く。
「違ったか」
その瞬間だった。
遠くから。
同じ音が返ってきた。
シアンは顔を上げた。
反響ではない。
少なくとも、そうは聞こえなかった。
セレーネが出した音より少し低い。
少し長い。
まるで、誰かが一度聞いてから、自分なりに返したような音だった。
セレーネの目が開く。
「今の」
「聞こえた」
ケイルが先に答えた。
ミレルも黙ってうなずいている。
今回は、四人全員が聞いた。
直後、二本の石柱の模様へ光が走った。
一本。
そして、もう一本。
線と円が順番に淡く輝き、谷の上へ光が伸びる。
先ほどより明るい。
細い線が何本も空中へ現れ、互いにつながっていく。
一本の道になる。
光だけではない。
その内側で、何かが形を得ていく。
透明な石のようなもの。
水面のようでもある。
シアンは思わず一歩近づいた。
「待って」
ミレルが言う。
「分かってる」
「その返事、信用できない」
シアンは止まった。
橋は谷を越え、浮遊都市側の石台までつながっている。
今度は一瞬では消えない。
ケイルが目を細める。
「石、もう一回」
シアンは別の小石を拾った。
橋の上へ投げる。
小石は落ちなかった。
硬い音を立てて跳ね、一度、二度と転がった。
四人は黙ったままそれを見る。
「ある」
ミレルが言った。
「あるね」
シアンも答える。
ケイルが谷の方へ石をもう一つ投げた。
そちらは橋の端を外れ、そのまま落ちていった。
「幅も見たままっぽい」
「渡る?」
セレーネが尋ねた。
誰もすぐには答えなかった。
今度はシアンも考えた。
行きたい。
それは間違いない。
けれど、自分が行きたいことと、四人で行くべきことは同じではない。
ミレルは不安を感じている。セレーネにはまだ何かが聞こえている。ケイルはここまで来た理由の半分が好奇心でも、残り半分は危険を測ることに使っている。
シアンは三人を見る。
「俺は行ってみたい」
ケイルが笑った。
「知ってる」
「でも、全員で行く必要はない」
ミレルが少し意外そうな顔をした。
「一人で行くつもり?」
「それも違う」
「じゃあ?」
「ここで一度戻るのもありだと思ってる」
ケイルが眉を上げた。
「本当に?」
「本当に」
「熱でもある?」
「失礼だな」
シアンはもう一度、浮遊都市を見る。
「ただ、知らない場所に入るなら、帰れることは確認したい」
ケイルの表情が少し変わった。
「それは賛成」
「橋が途中で消えたら困るし」
「かなり困る」
「どのくらい続くか測れないかな」
ケイルが柱へ近づきすぎない位置まで進み、光の状態を観察する。
「今のところ安定してる。ただ、何で維持されてるのか分からない」
「音?」
ミレルが言う。
セレーネは首を振った。
「私、もう吹いてない」
「じゃあ音が鍵で、起動した後は別?」
「分からない」
また、分からない。
シアンはその言葉が嫌いではなかった。
分からないことがある。
だから調べる。
それで十分だ。
「一人ずつ、橋の最初だけ試そう」
彼は言った。
「崖から三歩まで。何か変だったら戻る」
ミレルがこちらを見る。
「誰が最初?」
「俺」
「やっぱり」
「言うと思った?」
「すごく」
シアンは笑った。
斧の位置を確認し、荷物の留め具を締める。
ケイルが腕を組む。
「もし消えたら?」
「三歩なら戻れる」
「消え方による」
「じゃあ二歩」
「交渉みたいに減らすな」
セレーネが笑った。
ミレルはまだ心配そうだった。
シアンは彼女を見る。
「危ないと思ったら、すぐ戻る」
「本当に?」
「今回は」
「今回はって言った」
「……すぐ戻る」
ミレルは完全には納得していないようだったが、それ以上は止めなかった。
シアンは橋の前へ立った。
近くで見ると、不思議な表面だった。石のように見えるのに、奥に淡い光が流れている。何かの液体が固まったようにも見える。
足を上げる。
一歩。
硬い。
普通の石とほとんど変わらない。
二歩目。
何も起きない。
三歩目まで行こうとして、ミレルの視線を感じた。
シアンは二歩で止まった。
「約束守った」
「珍しい」
後ろでケイルが言う。
シアンは振り返った。
「普通に歩ける」
「戻って」
ミレルが言った。
シアンは素直に戻った。
橋は消えない。
光も変わらない。
次にケイルが試した。彼は足元を見ながら一歩進み、しゃがんで表面まで観察した。
「どう?」
「硬い。冷たい。継ぎ目なし」
「それだけ?」
「二歩で分かることなんて、そのくらい」
戻ってくる。
セレーネも一歩だけ橋へ乗った。
その瞬間、彼女の耳が動いた。
「何か聞こえる?」
シアンが尋ねる。
「……うん」
「何?」
「たくさん」
セレーネは橋の先を見る。
「でも、遠い」
ミレルが最後に試す。
彼女は慎重に一歩踏み出した。
そして、止まった。
「どうした?」
シアンが聞く。
「温かい」
「橋が?」
「違う」
ミレルは自分の胸元へ手を置いた。
「さっきの感じ」
谷の向こうから風が吹いた。
シアンにはただの風にしか感じられない。
しかしミレルは、何かを確かめるように目を閉じている。
やがて彼女は橋から戻った。
「嫌じゃない」
「何が?」
「分からない。でも、さっきみたいに怖くない」
ケイルが言った。
「それを安全判定に使うのはやめよう」
「分かってる」
ミレルが笑う。
「でも、言っておきたかっただけ」
四人はもう一度、橋を見る。
谷の向こうには廃都。
その上には雲。
もっと遠くには、青い空が続いている。
シアンは、自分たちがさっきまで歩いていた森を振り返った。
そこにはいつもの世界がある。
木々。
土。
沢。
街道へ戻れば、おそらく人がいる。宿があり、食事があり、今日が昨日の続きであるかのように一日が進んでいく。
そして目の前には、昨日まで存在しなかった道がある。
シアンは思った。
世界は、こちらへ来いと言っているのだろうか。
すぐに、その考えを打ち消した。
それは違う。
世界は誰かを待つために存在しているわけではない。
道が現れた。
街があった。
それだけだ。
行くかどうかは、自分たちが決める。
「どうする?」
ケイルが尋ねた。
シアンは三人を見る。
「今日は入り口まで」
「入り口?」
「向こう側へ渡って、戻れることを確認する。街の奥には入らない」
「意外と慎重」
「成長した?」
「たぶん今日だけ」
ミレルが言った。
セレーネは浮遊都市を見たまま、静かにうなずく。
「私も行く」
「俺も」
ケイルが言う。
三人の視線がミレルへ集まった。
「私だけ残ったら、そっちの方が心配だから」
「決まりだね」
シアンが言った。
四人は橋の前へ並ぶ。
最初にシアン。
少し後ろにケイル。
その後ろをセレーネとミレル。
一歩。
二歩。
橋は消えない。
数歩進むと、森から吹いていた風の音が変わった。
谷の中央。
足元には何もない。
遥か下を雲が流れていく。
シアンは一度だけ立ち止まり、周囲を見た。
怖くないわけではない。
けれど、それ以上に胸が動いていた。
世界には、自分が知らない場所がまだある。
その事実が、ただ嬉しかった。
「シアン」
ミレルの声。
「止まらないで」
「あ、ごめん」
歩き出す。
橋の中ほどまで来たところで、セレーネが振り返った。
「何?」
ケイルが尋ねる。
「音」
「また?」
「うん。でも……」
彼女は森の方を見る。
「後ろからも聞こえる」
四人が振り返る。
森の入口。
二本の石柱。
そのさらに奥。
道沿いに並んだ柱が、一つずつ淡く光り始めていた。
最初の柱。
次の柱。
また次。
光は、森の奥へ向かって移動していく。
いや。
逆だ。
森のずっと向こうから、この場所へ向かっている。
何かが、道を伝って近づいてくる。
ケイルの手が双剣へ伸びた。
「急いで渡る」
今度は誰も冗談を言わなかった。
四人は速度を上げた。
浮遊都市側の石台へ近づく。
あと十歩。
五歩。
シアンが最初に向こう側へ足を着けた。
硬い石。
続いてケイル、セレーネ、ミレル。
全員が渡り終えた直後。
森側の最後の柱が光った。
橋全体を光が走る。
シアンは反射的に振り返った。
何か来る。
そう思った。
しかし。
何も来なかった。
代わりに橋の光が一度だけ強くなり、そのまま静かに消えていく。
端からではない。
橋全体が、朝霧のように薄くなる。
「待って」
ミレルが言った。
数秒後。
橋は完全に消えた。
谷の向こうには森。
こちら側には四人。
そして、その間には何もない。
ケイルが長い沈黙のあと、言った。
「……戻れることを確認するんじゃなかった?」
シアンは谷を見た。
「そうだったね」
「成長、終わるの早かったな」
ミレルが額に手を当てた。
セレーネだけが、廃都の奥を見ている。
「シアン」
「うん?」
「また聞こえる」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
「何が?」
セレーネは答えず、街の中央に立つ高い塔を指した。
塔の窓。
ひとつ。
またひとつ。
暗かった廃都の中に、淡い光が順番に灯っていく。
遠い塔から、低い音が響いた。
一度。
そしてもう一度。
今度は四人全員に聞こえた。
シアンはしばらくその光を見ていた。
恐怖はあった。
戻る道も消えた。
それでも、胸の奥に生まれた感覚は変わらなかった。
知らない。
まだ、何も分からない。
だから。
シアンは斧の柄へ手を置き、街の奥を見る。
「まず、出口を探そう」
ケイルが横に並んだ。
「普通そこは“街を調べよう”じゃない?」
「言ったら怒られるから」
「少しは成長してるね」
後ろでミレルが呆れたように笑った。
セレーネも小さく笑う。
そして四人は、誰もいないはずの街へ向かって歩き始めた。
その頭上で。
長いあいだ暗かった塔の頂上に、最後の光が灯った。
# Chapter 5
## 共鳴する街
浮遊都市へ足を踏み入れてから、シアンは何度も後ろを振り返った。
橋は戻らない。
谷の向こうには、さっきまで自分たちがいた森が見えている。深い緑の樹冠が斜面を覆い、その上を白い雲がゆっくり流れていた。距離だけを見れば、それほど遠くないようにも思える。だが二つの場所の間には、底の見えない谷が口を開けている。
風が谷底から吹き上がり、シアンの濃い髪と外套を揺らした。
戻れなくなった。
その事実に不安がないわけではない。
それでも、胸の奥には別の感覚があった。
昨日まで存在しなかった道。
光で現れた橋。
空に浮かぶ、誰も知らない街。
自分の知っている世界の端が一枚めくれ、その下から別の世界が覗いたような感覚だった。
シアンは昔から、そういう瞬間に弱い。
分からないことを前にすると、怖さより先に「なぜだろう」と思ってしまう。正体の分からないものへ無謀に触れたいわけではない。ただ、知らないまま背を向けることの方が、彼には落ち着かなかった。
ケイルはすでに谷を見ていなかった。
数歩先でしゃがみ込み、街へ続く石畳の端を調べている。橋が消えた瞬間こそ驚いた顔をしたが、その後は早かった。
戻れない。
ならば、別の出口を探す。
ケイルの思考は、いつも現実へ戻るのが早い。
シアンとはそこが違う。
シアンが未知そのものへ意識を向けるなら、ケイルは未知の中にある仕組みを見る。
この場所はどう作られているのか。
何が壊れていて、何がまだ使えるのか。
どこに入口があり、どこから逃げられるのか。
表面に見えているものの裏側に、どんな構造があるのか。
それが彼にとっての世界だった。
ミレルも違う。
彼女は街へ入ってから、建物そのものよりも、空間の隙間を見ていた。
誰もいない窓。
開いたままの入口。
風の通る通り。
人の姿はないのに、そこに何かの気配だけが残っている場所。
時折立ち止まっては、まるで見えない誰かの表情を読むように周囲を見渡す。
セレーネに至っては、さらに違った。
彼女は景色を見るより、耳を澄ませている時間の方が長い。
鹿の耳が、ごく小さく動く。
何か聞こえるたびに、そちらへ意識を向ける。
四人は同じ街にいる。
それなのに、おそらく四人とも違うものを見ている。
シアンはそのことを、面白いと思った。
浮遊都市の入口は、思っていたよりも広かった。
正面には幅のある石畳の通りが延び、その左右に白灰色の建物が並んでいる。多くは二階か三階ほどの高さだが、奥へ行くほど塔のような建物が増えていた。
壁面には長い年月を思わせる細かな亀裂が走り、ところどころから蔦や細い草が伸びている。だが、完全な廃墟という印象でもない。崩れている場所はあるのに、街全体としての形は奇妙なほど整っていた。
そして至るところに、森で見た石柱と似た模様があった。
線。
円。
細かな幾何学模様。
ただし、こちらはずっと複雑だ。
建物の壁を横切り、地面へ入り、道の端を走り、次の建物へ続いている。
装飾のようにも見える。
けれど、シアンには何となくそれだけではない気がした。
「ここ、本当に人が暮らしてた街なのかな」
しばらく黙っていたミレルが言った。
彼女は近くの建物を見ている。
「建物の大きさも道幅も、人が使う前提で造られてる。でも、不思議なくらい生活の跡がないの。壊れた街っていう感じとも違う。何ていうか……」
ミレルは言葉を探すように、少しだけ眉を寄せた。
「誰かの部屋に入ったのに、その人が暮らしていた温度だけ消えてるみたい」
ケイルが近くの入口を覗き込んだ。
「俺も似たこと考えてた。ただ、たぶん見てるものは違うけど」
彼は中を指した。
「家具がない。食器もない。金属片も、布も、壊れた道具もほとんどない。急に人がいなくなった街なら、普通はもっと物が残る。逆に計画的に出ていったとしても、全部持ち出すのは無理だ」
ケイルは床と壁を一度見比べる。
「ここは、街が捨てられたというより、中身だけ抜かれたように見える」
ミレルはその言葉を聞き、少しだけ表情を曇らせた。
中身だけ抜かれた。
その言い方は、彼女が感じていたものに近かった。
人の気持ちなら、まだ分かる。
怒っている人が平静を装っても、声の硬さや目線から何となく伝わってくる。悲しい人が笑っていても、その笑顔の裏に残るものを感じることもある。
けれど、場所から何かを感じるとなると話が違う。
これは本当にここにあるものなのか。
それとも、自分が廃墟を見て勝手に意味をつけているだけなのか。
その区別がつかないことが、ミレルには少し怖かった。
自分の感覚を信用しすぎることも、疑いすぎることもしたくない。
その間で、彼女はまだ距離を測っていた。
セレーネは数歩離れた場所で、通りの先を見つめている。
「音も変」
小さく言った。
シアンが振り返る。
「森のときと?」
「うん」
セレーネは目を閉じた。
風が通りを抜ける。
建物のどこかから、細かな砂が落ちる音がする。
少し遠くでは、水滴が一定の間隔で落ちている。
そのすべての向こうに、もっと弱い何かがある。
「森では、いつもある音がなくなってた。ここは逆。聞こえないものが多すぎる」
シアンには、すぐには意味が分からなかった。
「聞こえないものが、多い?」
セレーネは少し困ったように頷く。
「うまく説明できない。壁も道も、あの塔も、全部が少しずつ違う響きを持ってる。でも普通の音じゃないの。音になる一歩手前みたいな……何かがずっと残ってる」
ミレルが、その言葉に反応した。
「Resonance(レゾナンス)……?」
その名前なら、シアンも知っている。
この世界でレゾナンスという言葉は、それほど珍しいものではない。
音楽家なら、音と音が響き合うことをそう呼ぶ。
治療師なら、人の身体や呼吸が整ったときに現れる反応をそう説明することがある。
森や古い土地では、そこに住む生き物、感情、記憶、自然が重なったときに生まれる現象を指すこともある。
ただし、一つの技術ではない。
呪文を唱えれば火が出る、といった決まった力でもない。
人。
生命。
感情。
音。
記憶。
場所。
それらが触れ合ったときに起こる、目に見えたり見えなかったりする反応。
人々はそれを広く、レゾナンスと呼んでいた。
セレーネはゆっくり頷いた。
「たぶん。でも、私が知ってるレゾナンスとは少し違う」
「どう違う?」
「普通は、何かと何かが響き合ってる感じがする。人と楽器とか、声と部屋とか、森と生き物とか。でもここは……」
彼女は街を見渡した。
「街そのものがずっと何かを待ってるみたい」
その言葉を聞いた瞬間、ケイルの視線が変わった。
恐怖ではない。
何かがつながったときの目だった。
「待ってる、か」
彼は壁へ近づいた。
触れずに、模様を追う。
線は壁から地面へ降り、石畳の縁に沿って奥へ続いている。
「もしこれがレゾナンスに関係してるなら、自然現象だけじゃないかもしれない」
シアンが横に並ぶ。
「どういうこと?」
ケイルは壁の模様を指した。
「森の柱、橋の柱、この街。全部同じ規則が入ってる。もちろん形は違うけど、線と円の組み合わせ方が似てる」
彼は少し考えてから続けた。
「水を流したいなら水路を造る。人を運びたいなら道を造る。じゃあ、レゾナンスを何かに使いたいなら?」
シアンは黙った。
「それを流す道を造る?」
「俺には、そう見える」
ケイルは街の奥を見る。
「少なくともこれは飾りじゃない。何かをつなぐための構造だ」
その説明を聞きながら、シアンの視界が少し変わった。
さっきまで別々のものとして見ていた道、石柱、建物、塔。
もし全部が一つにつながっているなら。
これは街ではなく、巨大な仕組みなのかもしれない。
そしてその中に、人が暮らしていた。
「橋も、その一部?」
シアンが尋ねる。
「可能性はある」
ケイルが答えた。
ミレルは黙って、自分の胸元へ手を置いた。
彼女の中でも、一つの仮説が生まれていた。
「もしそうなら……」
三人が彼女を見る。
「最初に橋が出たとき、私が感じてたものもレゾナンスだったのかもしれない」
言葉にした途端、胸が少しざわついた。
「最初は冷たかった。怖いというより、何かを失った後みたいな感じ。でも橋が現れる直前だけ、少し温かくなった」
ミレルは自分の感覚を確かめるように、ゆっくり話す。
「それがこの場所に残った感情なのか、私自身の感情なのかは分からない。でも、何かが変化したことだけは分かる」
彼女は一瞬、言葉を止めた。
「もし私の感情がこの街に反応してるんだったら、それはちょっと……怖い」
シアンは、その言葉で初めてミレルの不安がはっきり見えた気がした。
彼女は危険を恐れているだけではない。
自分と外の世界の境界が曖昧になることを怖がっている。
感情を敏感に感じ取れるからこそ、どこまでが自分で、どこからが他者なのかを大切にしている。
この街は、その境界に勝手に触れてくる。
それが嫌なのだろう。
「まだ決めなくていいと思う」
シアンが言った。
ミレルがこちらを見る。
「何を?」
「何がレゾナンスで、何が違うのか。今すぐ名前をつけなくていい」
シアンは少し考えながら続けた。
「セレーネが聞いてるものも、ケイルが見てる仕組みも、ミレルが感じてるものも、たぶん同じ現象の別の部分かもしれない。でも、違うかもしれない」
ケイルが少し笑う。
「珍しく曖昧だね」
「分からないから」
「その答え、君は好きそうだ」
シアンも笑った。
「好きというか、分からないものを分かったことにする方が嫌かな」
それは彼自身の本音だった。
分からないなら、分からないまま見ていけばいい。
世界は、すぐに答えを出さなくても逃げない。
少なくとも、今のところは。
「俺には、セレーネみたいに音は聞こえない。ミレルみたいに場所の感情も分からない。壁を見ても、ケイルみたいに仕組みまでは読めない」
シアンは街の奥を見る。
「でも、この道がどこにつながってるのかは知りたい」
そう言うと、不思議なくらい自分の中で納得した。
たぶん、それが自分の役割なのだ。
すべてを理解することではない。
まず、見に行く。
確かめる。
知らなかったものを、自分の目で知る。
ミレルはシアンを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
彼が「大丈夫」と言わなかったことが、逆によかった。
大丈夫かどうかなんて、誰にも分からない。
分からないものを、分からないまま一緒に見る。
その距離感は、彼女には心地よかった。
そのとき。
通りの右側で、淡い光が灯った。
全員が振り返る。
建物の壁に刻まれた一本の線が光っていた。
青とも白とも言えない、薄い光。
それはゆっくり隣の線へ移り、地面へ降りる。
次の建物。
次の道。
まるで街の中を何かが流れているようだった。
ケイルがすぐに動く。
彼の中では、驚きより観察が先に立った。
光がどこから来て、どこへ行くのか。
どの線が先に反応し、どの線が後なのか。
街が動いたという事実そのものより、どう動いたのかを見ようとしている。
「橋と同じだ」
彼は光を追いながら言った。
「いや、もっと大きい。街全体につながってる」
セレーネは目を閉じた。
彼女には光より先に音があった。
低いもの。
高いもの。
遠いもの。
それまで別々だった微かな響きが、光の移動とともに少しずつ重なっていく。
初めて、街が一つの音へ近づいている。
セレーネはその変化に、わずかな高揚を覚えた。
怖さはある。
でも同時に、聞いたことのない音が形になっていくことへの喜びもあった。
音楽家としての自分が、危険より先にそれを美しいと思ってしまう。
そのことに少し戸惑いながらも、彼女は耳を離せなかった。
「音も動いてる」
セレーネが言う。
ミレルも目を閉じていた。
彼女には音は聞こえない。
けれど、胸の奥を撫でるような感覚がある。
さっきまで街全体に広がっていた冷たさが、ゆっくり一方向へ集まっていく。
悲しみ。
孤独。
期待。
それらを無理に名前へ変えようとするのを、ミレルはやめた。
今はただ、感じ方が変わったことだけを覚えておけばいい。
「私にも分かる」
彼女は静かに言った。
「何かが集まってる」
シアンは三人を見る。
同じ瞬間。
同じ場所。
ケイルには構造。
セレーネには音。
ミレルには感情。
そして自分には。
光の先に続く道。
行ってみたい。
単純だった。
けれど、たぶんそれでいい。
光は街の中を枝分かれしながら進んだ。壁から地面へ。地面から柱へ。柱から別の建物へ。
そして最後には、一つの方向へ集まる。
街の中央にそびえる高い塔。
塔は周囲の建物より明らかに古く、細長い。上部の一部は崩れ、雲の切れ間から差す光がその輪郭だけを白く浮かび上がらせている。
その頂上に、淡い光が灯った。
セレーネが小さく息を吸う。
「今度は、はっきり聞こえる」
シアンが塔を見る。
「呼ばれてる?」
セレーネはすぐには答えなかった。
自分が聞きたい答えへ寄せないように、慎重に耳を澄ます。
やがて首を横に振った。
「そう言いたくはない」
「違う?」
「分からない。でも、“来て”っていうより……道がそこへ続いてる感じ」
ケイルもうなずいた。
「構造も同じ。光は全部あそこへ集まってる」
ミレルは塔を見ながら、少し遅れて言った。
「私は、人がいる感じはしない」
「じゃあ何がある?」
シアンが尋ねる。
ミレルはしばらく塔を見ていた。
「何かが、すごく強く残ってる」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
街は静かだった。
人の姿はない。
それなのに、確かに何かが動いている。
シアンは初めて、レゾナンスという言葉を少し違う形で理解した気がした。
一つの力ではない。
誰か一人が使う魔法でもない。
音。
感情。
身体。
場所。
記憶。
そして、この街に組み込まれた仕組み。
それぞれが触れ合い、違う形で反応を返す。
だから、レゾナンスなのかもしれない。
「塔へ行こう」
シアンはそう言った。
けれど、今回はすぐには歩き出さなかった。
三人を見る。
「途中で何か変わったら止まろう。セレーネは音。ミレルは感じ方。ケイルは構造。何か一つでも変だったら、まず共有する」
ケイルが少し笑った。
「ちゃんと人の話を使うようになったね」
「昔から使ってるよ」
「そういうことにしておこう」
ミレルもわずかに笑った。
四人は光る道を進み始めた。
街の奥へ入るにつれ、建物は少しずつ高くなる。広場らしき場所には、割れた石像の台座だけが残り、その周囲を細い水路が円形に囲んでいた。水は流れていない。それでも底には薄い青い結晶のようなものが点々と残り、近くを通るとわずかに光を返した。
シアンは何度も足を止めたくなった。
見たいものが多すぎる。
脇道。
塔。
石像。
見たことのない文字。
しかし今は、中央の塔へ向かう。
一つずつ。
それが今の約束だ。
ケイルは歩きながら、建物の配置を見ていた。
街路が無秩序ではない。
中央の塔を中心に、複数の通りが放射状に延びている。
光の線も、それに沿っている。
つまりあの塔は象徴ではない。
機能的な中心だ。
ケイルの中で、街の地図が少しずつ組み上がっていく。
セレーネは逆に、塔へ近づくほど不安を感じ始めていた。
音が増えている。
美しい。
でも、多すぎる。
何十もの旋律が同時に鳴り、そのすべてが違う時間から届いているような感覚。
聞こうとすると、自分の呼吸までその中へ引き込まれそうになる。
彼女は一度だけ意識して息を吐いた。
これは自分の音ではない。
聞こえるものすべてに応える必要もない。
そう自分へ言い聞かせる。
ミレルもまた、自分の境界を意識していた。
街の奥へ入るほど、感情のようなものが強くなる。
けれど彼女は、それを全部受け取らないようにしていた。
感じる。
でも、抱えない。
自分ではないものまで自分のものにしない。
その距離を保つ。
それが今まで人と関わる中で覚えてきたことだった。
そして今、それを人ではなく、一つの街に対して使っていることが少し可笑しかった。
シアンは三人の様子を何となく見ていた。
自分には彼らが何を感じているのか完全には分からない。
でも、分からないからこそ、見ておきたいと思った。
一緒に歩くというのは、同じものを見ることではないのかもしれない。
違うものを見ていると知ったまま、同じ方向へ進むことなのかもしれない。
そんなことを考えた、そのとき。
セレーネが突然足を止めた。
今までとは違う止まり方だった。
音を探しているのではない。
何かを避けようとしている。
ほぼ同時に、ミレルも通りの左側へ顔を向けた。
そこには半分崩れた建物があった。
扉はなく、入口の奥は暗い。
「どうした?」
シアンが声を落とす。
セレーネの耳が緊張したように立っている。
「街の音じゃない」
ミレルも顔をこわばらせた。
「私も分かる」
ケイルが二人を見る。
「何が?」
ミレルは暗闇から目を離さなかった。
「さっきまでのは、残ってるものだった。でもこれは違う」
「違うって?」
少し間があった。
「今、こっちを見てる感じがする」
ケイルの手が双剣へ伸びた。
シアンも斧へ手を置く。
暗闇の奥から、石を擦るような低い音がした。
一度。
それから、もう一度。
何かが動いた。
シアンの中で、好奇心と警戒が同時に立ち上がる。
知りたい。
でも、近づきすぎてはいけない。
今までなら、好奇心がもう半歩前へ出ていたかもしれない。
けれど今回は三人がいる。
自分一人の好奇心で動く場面ではない。
シアンは一歩だけ前へ出て、そこで止まった。
暗闇の中に、二つの淡い光が浮かぶ。
目。
そう見えた。
セレーネが息を飲む。
「待って」
シアンは動かない。
セレーネは、その存在から伝わってくるものを必死に聞こうとしていた。
敵意。
怒り。
警告。
そういうものなら分かりやすい。
けれど違う。
音の奥にあるものが、何か別の響きを持っている。
「これにも……レゾナンスがある」
ケイルが双剣を抜かないまま、暗闇を見つめる。
「街の一部?」
「分からない」
セレーネは答える。
「でも、同じ響きが少しある」
ミレルは胸の奥に走る緊張を感じながら、それとは別の何かも感じていた。
怖い。
けれど。
あれは怒っているのではない。
少なくとも、そうは感じない。
「シアン」
「うん」
「まだ攻撃しないで」
シアンは短く頷いた。
最初からそのつもりだった。
それでもミレルがそう言った理由は分かる。
目の前のものを敵と決めた瞬間、見えなくなるものがある。
暗闇の中の二つの光が、ゆっくりこちらへ近づいた。
石のような足音。
重い。
けれど不規則ではない。
一歩。
また一歩。
街が目を覚ましたのか。
それとも。
この街の中で、ずっと何かが待っていたのか。
まだ四人には分からない。
ただ一つだけ分かるのは。
昨日まで存在しなかった道の先で、
世界は初めて、
自分たちの方を見返してきたということだった。
Chapter 6
目覚めたもの
暗闇の奥から現れたものを見て、シアンは最初、それが生き物なのかどうか判断できなかった。
人よりひと回り大きい。肩の位置だけで、シアンの頭より高い。全身を覆うものは金属の鎧にも見えたが、継ぎ目がほとんどなく、巨大な岩を人の形に削り出したようでもある。表面は濃い灰色で、ところどころに街の壁や石柱と同じ細い線が走っていた。
顔に当たる部分には、二つの淡い光。
口はない。鼻もない。
人間に似せて造られているのに、人間である必要のない形だった。
それは崩れた建物の入口で止まった。
四人との距離は十数歩。
誰も動かなかった。
谷から流れ込んできた風だけが、通りに積もった細かな砂を転がしていく。
シアンは斧の柄へ右手を添えた。
掌に馴染んだ硬い感触がある。それだけで少し呼吸が落ち着く。しかし心臓は、いつもより速かった。
怖くないわけではない。
目の前にいるものが突然こちらへ飛びかかってくれば、無傷では済まないだろう。
それでも恐怖の隣で、別の感情がむくむくと頭をもたげている。
あれは何だ。
誰が造った。
どれくらい長くここにいた。
そして、なぜ今になって動いた。
知りたい。
そんな自分がおかしくなって、シアンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「こんな時に何笑ってるの」
ミレルが小声で言った。
「笑ってた?」
「少し」
「まずい?」
「かなり」
ミレルはそう言ったものの、自分も少しだけ笑った。
ほんのわずかに肩の力が抜ける。
怖いとき、人は時々どうでもいい言葉に救われる。
「動かないで」
今度はケイルが低い声で言った。
普段の軽さは消えていた。
彼は双剣を抜いていない。ただ、必要になればすぐに抜けるよう、指先を柄の近くへ置いている。
目線は相手の顔ではなく、肩から腕、腰、脚へと忙しく動いていた。
「右腕に武器は見えない。左も同じ。手はあるけど、指は四本……。脚は重そうだけど、さっきの音ほど動きは鈍くない」
言いながら、ケイルは少しだけ重心を下げた。
声は冷静だ。
けれどシアンには、彼が緊張しているのが分かった。
冗談を言わないケイルは、それだけでかなり警戒している。
ミレルは目の前の存在を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
胸の内側が縮む。
恐怖はある。
けれど、それとは別に何かが伝わってくる。
怒りではない。
殺意でもない。
もっと硬く、動かしにくい何か。
命令。
義務。
あるいは、何百年も同じ場所を守り続けてきた者の疲労にも似ている。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
疲れている。
そんなことを感じてしまった自分に、ミレルは戸惑った。
目の前にいるものが疲労など感じる存在なのかすら分からない。
だから、決めつけない。
つい先ほど、この街で学んだことだった。
感じたことと、事実は違う。
「たぶん……まだ怒ってない」
ミレルが言った。
ケイルが横目で見る。
「“まだ”が気になるな」
「私も」
ミレルは苦笑した。
「でも、今すぐ襲ってくる感じはしない」
セレーネはほとんど会話を聞いていなかった。
彼女には、別のものが聞こえている。
目の前の存在が足を動かすたび、低い振動が石畳へ広がる。
足音だけではない。
そのさらに奥。
聞こうと意識を向けるほど、街の壁や地面から細かな響きが返ってくる。
それは目の前の存在の動きと、わずかに重なっていた。
セレーネの表情が変わる。
恐れていた目が、少しだけ驚きへ変わった。
「これ……街とつながってる」
シアンが彼女を見る。
「分かる?」
「音が同じなの。完全に一緒じゃないけど、近い。こっちが動くと、周りも少し響く」
ケイルがすぐ壁へ目を向けた。
確かに、石造りの建物に刻まれた細い線が、ごく弱く明滅している。
「同じ仕組みから動いてるのかも」
「街の一部ってこと?」
シアンが聞く。
「可能性はある」
ケイルは短く答えた。
その瞬間、目の前の存在が一歩進んだ。
四人の身体が同時に硬くなる。
シアンは斧を半分ほど抜いた。
金属が鞘代わりの留め具を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
ミレルが息を止める。
ケイルの両手が双剣へ移る。
セレーネは反射的に一歩後ろへ下がった。
しかし、その存在はそこで止まった。
ゆっくり右腕を上げる。
攻撃の構えには見えない。
手のひらを四人へ向けた。
街のどこかで、低い音が鳴った。
そして胸元へ青白い線が走り、円を描く。
次の瞬間。
シアンたちの背後に続いていた光が消えた。
塔へ向かって伸びていた道標のような光が、一斉に暗くなる。
ミレルが振り返る。
「道が……」
胸の奥に、今度ははっきりした拒絶を感じる。
止まれ。
そんな印象だった。
シアンも似たことを考えた。
「ここから先へ行くなってことかな」
ケイルは存在から目を離さない。
「門番みたいなものかもしれない。門そのものはなくても、ここを通る何かを確認してるとか」
「話せるかな」
シアンが言った。
「やってみたら?」
ケイルはそう言った後、少しだけ笑った。
「通じなかったら、かなり恥ずかしいけど」
「今それ言う?」
「緊張してるから」
正直な返事だった。
ミレルの口元にも、また小さな笑みが浮かぶ。
セレーネも一瞬だけケイルを見た。
張り詰めた空気の中で、その短い笑いが少しだけ身体を軽くした。
シアンは斧からゆっくり手を離した。
「俺たちは、戦いに来たわけじゃない」
当然、返事はない。
それでも続ける。
「道が現れた。橋が出た。それでここへ来た。何をしてほしいのかは分からない」
少し間を置く。
「だから、できれば教えてほしい」
自分でも妙な台詞だと思った。
石の巨人へ向かって何を言っているのだろう。
けれど、何もせず武器を向け続けるよりはよかった。
存在の胸元の光が変化した。
円の中心へ、もう一つ小さな光が現れる。
セレーネが顔を上げた。
「音が変わった」
存在の腕がゆっくり下がる。
胸の光から一本の線が地面へ落ちた。
そこから光が石畳を這うように伸びてくる。
四人の足元まで来て止まった。
そこに模様が浮かぶ。
円。
線。
そして、人間の手のひらに似た形。
シアンが眉を寄せた。
「触れってこと?」
「そう決めるのは早い」
ケイルが即座に言った。
「でも手に見える」
「手に見える罠かもしれない」
「わざわざ?」
「この街ならやりかねない」
その言い方がおかしくて、シアンは思わず笑った。
ミレルも呆れたような顔をする。
「ケイル、街に対してもう性格設定してない?」
「警戒心の強い街だと思ってる」
「それは私たちの方じゃない?」
少しだけ空気が和らいだ。
その一方で、ミレルは足元の光へ意識を向けていた。
さっきまでの硬い拒絶が弱くなっている。
代わりに感じるのは、確認。
こちらが何者なのか、見ようとしているような。
もちろん、確信はない。
でも今回は、それを口にすることへのためらいが少し減っていた。
「私には、さっきより拒まれてる感じが弱い。通していいかどうか確かめてる……そんな感じに近い」
シアンがミレルを見る。
「ありがとう」
それだけだった。
正しいとも、間違っているとも言わない。
その一言に、ミレルは少し安心した。
感じたものを、無理に正解にしなくていい。
その余白があると、呼吸が楽になる。
セレーネも地面の光へ耳を澄ませていた。
「音もさっきより柔らかい」
ケイルが聞く。
「柔らかいって、分かる?」
「分かるというより……そう聞こえる」
「なるほど」
「信用してない?」
セレーネが少しだけ笑う。
「逆。俺には聞こえないから、そのまま覚えてる」
セレーネはその答えを気に入った。
自分だけに聞こえる音を、特別な力だと持ち上げられるよりずっといい。
聞こえる。
でも、意味はまだ分からない。
そのままでいられる。
シアンは手形を見た。
「俺がやる」
ミレルが小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「今回は理由がある」
「聞こうか」
「一番やりたいから」
ケイルが顔をしかめた。
「それは理由というより欲望だね」
シアンは笑った。
「じゃあもう一つ。セレーネは音を聞いた。ミレルは感じた。ケイルは構造を見てる。俺は……触ってみないと何も増えない」
それを聞いて、ミレルは一瞬止めようとした。
でもやめた。
シアンは無謀に飛び込もうとしているわけではない。
三人の情報を聞いた上で、自分の役割を選んでいる。
それなら止める理由も違ってくる。
「変だと思ったら、すぐ離して」
「分かった」
シアンは膝をつき、光へ手を伸ばした。
手のひらが触れる直前、胸が少し高鳴る。
怖い。
でも同時に、楽しい。
自分でも不謹慎だと思うほど、その感覚ははっきりしていた。
世界の知らない部分へ触れようとしている。
身体が少し軽くなるような、不思議な高揚感があった。
手のひらを光へ重ねる。
冷たい。
石の感触。
その次の瞬間。
身体の奥を何かが通った。
シアンの呼吸が止まる。
痛くない。
けれど、自分の内側へ突然手を入れられたような感覚。
記憶。
感情。
名前をつける前の何か。
それらを一瞬だけ外から覗かれたような。
シアンは反射的に手を離した。
「シアン!」
ミレルが駆け寄る。
彼女の顔には本気の心配が出ていた。
「大丈夫?」
「うん……たぶん」
ケイルが眉を寄せる。
「“たぶん”はやめようか」
シアンは自分の手を見る。
傷はない。
痺れもない。
ただ心臓だけが速い。
「何かに見られた感じがした」
「見られた?」
セレーネが近づく。
「頭の中じゃない。もっと……自分の中を」
言葉にすると、背中に遅れて寒気が走った。
さっきまでは好奇心の方が勝っていた。
今になって、少し怖くなる。
自分というものに、外から触れられた。
その感覚は思った以上に生々しかった。
ミレルはその表情を見て、シアンの腕へそっと触れた。
慰めるというより、ここにいると伝える程度の軽い接触だった。
それだけで、シアンの呼吸が少し戻る。
「もう一回は触らないで」
「今はそのつもり」
「今は?」
「言葉のあや」
ミレルは苦しいような、呆れたような顔で笑った。
そのとき、石の巨人が動いた。
四人が身構える。
しかし、攻撃ではない。
一歩横へ移動する。
道を空けるように。
胸の光が消えた。
同時に、塔へ続いていた街の光が再び灯る。
一本。
また一本。
暗かった石畳の上を、淡い光が奥へ走っていく。
セレーネの顔に驚きと、小さな喜びが浮かんだ。
「通っていいのかな」
ケイルが番人らしき存在を見る。
「少なくとも、止めるのはやめたみたいだ」
ミレルも少しだけ肩の力を抜いた。
それ以上に嬉しかったのは、戦わずに済んだことだった。
怖いものが現れた。
でも、すぐに攻撃しなかった。
少し待った。
観察した。
伝えようとした。
その結果、道が開いた。
もし最初から敵だと決めていたら、この結果にはならなかったかもしれない。
そのことが、彼女の胸に静かな温かさを残した。
シアンも同じようなことを考えていた。
世界は、自分たちの関わり方によって返事を変えることがある。
それもまた、レゾナンスなのだろうか。
まだ分からない。
今は、分からないままでいい。
「これ、番人だとしたら面白いな」
ケイルが言った。
「何が?」
「敵でも味方でもない。ただ役割があるだけなのかもしれない。ここを守る。通るものを確認する。それだけ」
ケイルは立ったままの存在を見る。
「俺たちが勝手に“敵”って呼んで、先に斬りかかってたら、たぶん話が変わってた」
シアンは頷いた。
「覚えておこう」
四人は番人の横を通り過ぎた。
近くで見ると、その身体には無数の細かな傷があった。角が欠け、表面には風雨に削られた跡もある。
ミレルは一瞬だけ立ち止まりそうになった。
どれくらい長くここにいたのだろう。
誰も来ない街で。
ただ役割だけを守りながら。
胸に切なさのようなものが浮かぶ。
けれど、それが自分の感情なのか、目の前の存在から来たものなのかは分からない。
だから彼女は、心の中だけで小さく呟いた。
お疲れさま。
そして歩いた。
街の中央へ進むほど、塔は大きく見えてきた。白灰色の建物の向こうから細長く伸び、その上部だけが空の青に突き刺さっている。光る線は石畳の両側を走り、ときどき建物へ入り、また道へ戻ってきた。
途中、小さな広場へ出た。
中央には円形の台座があり、その周囲に六本の細い柱が立っている。どれも途中で折れ、先端は失われていた。
シアンはそのまま通り過ぎようとして、足を止めた。
「……あれ」
台座の中心。
薄い板のようなものが浮かんでいる。
石ではない。
金属にも見えない。
ほとんど透明な素材で、その表面を無数の小さな光がゆっくり動いていた。
「また止まった」
ケイルが言った。
「俺のせいじゃないよ。あれが変だから」
「たぶん毎回そう言うよね」
今度はミレルも笑った。
先ほどまでの緊張が少し薄れたせいか、シアン自身も身体が軽く感じる。
四人は台座へ近づいた。
透明な板の上には、数え切れないほどの光点がある。
いくつかは細い線でつながり、いくつかは暗い。
弱く瞬くもの。
完全に消えているもの。
そして、わずかだが、はっきり光り続けているもの。
ケイルの表情から笑みが消えた。
今度は恐れではない。
興味だった。
「地図……かな」
シアンが聞く。
「街の?」
「たぶん違う」
「なんで?」
「広すぎる」
ケイルは光点の配置を見る。
「これが場所を表してるなら、一つの街じゃない。もっと大きい」
セレーネも近づいた。
「それぞれから音がする」
声に少し喜びが混じっている。
「全部違う。すごく小さいけど……」
彼女は目を輝かせた。
怖かった音が、初めて少しだけ美しいものに変わっている。
それはセレーネ自身にも嬉しかった。
この街に入ってからずっと、聞こえるものに警戒していた。
でも今は、もっと聞いてみたいと思う。
その感情に気づいた瞬間、肩から力が抜けた。
ミレルも板を見つめていた。
光の一つ一つから、明確な感情までは感じない。
ただ、途切れたものと、まだ残っているものの違いだけが妙に胸へ響く。
消えた光を見ると、理由も分からないのに少し悲しくなる。
まだ光っているものを見ると、ほんの少し安心する。
彼女はその感覚を無理に説明しなかった。
ただ、静かに眺めていた。
シアンは光点の一つを見る。
現在地。
なぜか、そう思った。
その点から細い線が延びている。
森。
昨日までなかった道。
この街。
もし、それが一つにつながっているのなら。
「これ……」
シアンは声を落とした。
「道の地図じゃないか?」
ケイルが隣で目を細める。
「可能性はある」
別の光は遥か遠くにある。
山の方向。
海の向こう。
深い森。
それとも、名前すら知らない土地かもしれない。
シアンの胸が高鳴った。
恐怖とは違う。
今度は純粋な喜びに近かった。
自分の知らない場所が、こんなにもある。
そこへ続く道が、本当に存在するかもしれない。
何かを手に入れたいわけでもない。
征服したいわけでもない。
ただ見たい。
どんな場所なのか。
どんな人が暮らしているのか。
何がそこにあるのか。
想像するだけで、胸の奥が明るくなる。
その瞬間。
透明な板の中心から一本の光が走った。
四人が息を止める。
現在地と思われる一点から、遠く離れた別の一点へ。
線がつながる。
そして。
その先の光点が、ゆっくり灯った。
セレーネが小さく息を飲む。
ミレルの胸には、理由の分からない切なさと期待が同時に広がった。
ケイルは一瞬見入ったあと、すぐに周囲へ目を走らせる。
「俺たちが起動した?」
誰も答えられない。
シアンは、新しく灯った光から目を離せなかった。
遠い。
どこなのかも分からない。
それでも、そこに何かがある。
そして。
この道は一本ではない。
その考えが、はっきり形になった。
昨日まで、世界はもっと小さかった。
もちろん本当の世界が小さかったわけではない。
小さかったのは、自分の中にある世界だ。
知っている場所。
知っている道。
聞いたことのある国。
その外側は、ただ曖昧な空白だった。
今、その空白の一つに光が灯った。
シアンは思わず笑った。
今度は自分でも分かるほど、はっきりと。
「また笑ってる」
ミレルが言った。
「うん」
「今回は聞かなくても理由分かる気がする」
シアンは遠くの光を見つめたまま答えた。
「世界、思ってたより広いみたいだ」
その言葉を聞いて、セレーネも微笑んだ。
ケイルは呆れたように息を吐きながらも、口元には少しだけ笑みがある。
ミレルは、新しく灯った一点を見る。
まだ行ったことのない場所。
知らない人たち。
もしかすると、そこにも何かが失われ、何かが残っている。
少し怖い。
でも。
それだけではない。
行ってみたい。
その小さな気持ちが、自分の中にも生まれていることに気づいた。
四人の前で、遠い光は静かに瞬いていた。
まるで世界のどこかで、誰かがこちらを見返しているように。
Chapter 7
森が覚えている道
その朝、ルナリアは、森の中に石が増えていることに気づいた。
正確には、増えたわけではない。
そこにあるはずのなかった石が、そこにあった。
エラリスの森は夜明け前がいちばん静かだ。梢の奥にはまだ薄い闇が残り、葉の先についた露が、青白い朝の光を小さく返している。遠くでは夜鳥が最後の声を落とし、その代わりに目を覚ました小鳥たちが一羽ずつ鳴き始める。
ルナリアはその時間を好んでいた。
昼の森は、生きているものの声が多い。
夜の森は、見えないものが多い。
その間にある短い時間だけ、今と昔が同じ場所に立っているように感じることがある。
もちろん、本当に過去が見えるわけではない。
そんな便利な力を、ルナリアは持っていなかった。
ただ、古いものは新しいものとは違う沈黙を持っている。
長い年月、雨に削られた石。
誰にも使われなくなった井戸。
文字がほとんど消えてしまった碑。
持ち主を失った道具。
そうしたものの前に立つと、そこにあった時間を想像したくなる。
誰が触れたのか。
誰が通ったのか。
なぜ、今は使われていないのか。
答えが分からないからこそ、ルナリアは古いものを見るのが好きだった。
その朝、彼女が見つけたのも、一枚の古い石だった。
森の奥へ向かう細い獣道。
その脇。
苔の下から、平らな白灰色の面が覗いている。
ルナリアは立ち止まった。
銀白色の長い髪が肩から流れ、その先を朝の風が揺らした。
少し迷ってから、その場へ膝をつく。
苔へ指を触れた。
湿っている。
最近誰かが剥がした形跡はない。
端を傷つけないように少しずつ苔を避けると、石の表面に一本の線が現れた。
円。
その中を横切る細い線。
さらに、その先にも同じ模様。
ルナリアの手が止まる。
「……これ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
見覚えがある。
それがどこだったか、すぐには思い出せなかった。
記憶というものは不思議だ。
必要なときには出てこないくせに、どうでもいい時に突然帰ってくる。
ルナリアは立ち上がり、少し離れた場所から石を見る。
森。
苔。
石。
模様。
そして、ふいに。
月明かり。
記憶が一つ戻った。
幼い頃、森のさらに北で見た古い遺構。
半分地面へ沈んだ石柱に、同じような模様があった。
あのとき、大人たちはそれを「昔のもの」とだけ言った。
誰が造ったのか。
何に使ったのか。
聞いても、はっきりした答えは返ってこなかった。
ルナリアは、その曖昧な答えが少し嫌だったことを覚えている。
昔のもの。
それは説明ではない。
時間の向こう側へ、分からないものを押しやる言葉にすぎない。
彼女はもう一度しゃがみ、石の周囲を調べた。
土の盛り上がり方を見る。
苔の厚みを見る。
近くの木の根を見る。
新しく置かれたようには見えない。
むしろ、ずっと前からここにあった。
ただ、見えていなかっただけのように。
その考えに、胸の奥が小さくざわついた。
昨日ここを通ったわけではない。
だから、昨日までなかったとは言えない。
それでも。
この場所は何度も歩いている。
少なくとも、こんな石が見えていた記憶はなかった。
ルナリアは獣道の先を見る。
朝靄の向こうに、木々が続いている。
少しだけ迷った。
今日は別の場所へ行く予定だった。
森の東側にある古い祠を確認し、その後は集落へ戻るつもりだった。
予定を変えるほどのものか。
たった一枚の石だ。
そう考えた直後。
森の奥で、光が灯った。
ルナリアは顔を上げた。
淡い。
青白い光。
一瞬だけ。
木々のあいだから見え、そのまま消える。
身体が自然にそちらを向いた。
今度は迷わなかった。
ルナリアは歩き始めた。
細い獣道を外れ、光の見えた方向へ進む。
森は次第に深くなる。
木々の幹は太くなり、頭上では枝葉が重なって空を隠していく。地面には柔らかな苔が広がり、踏むたびに足音が吸い込まれた。
そして。
二枚目の石を見つけた。
その先に三枚目。
さらに四枚目。
偶然ではない。
苔と土の下に隠れながら、石は一定の幅で並んでいる。
道だ。
ルナリアは胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。
怖さより、嬉しさが先に来た。
古いものが見つかったからではない。
今まで知っていると思っていた森の中に、まだ知らないものが残っていたことが嬉しかった。
エラリスは広い。
そのことは分かっている。
けれど、知識として「広い」と知っていることと、自分の足元から知らない道が現れることは違う。
ルナリアは歩調を少し速めた。
それに気づいて、自分で小さく笑う。
「そんなに急がなくても、道は逃げないでしょうに」
声に出してみると、少し落ち着いた。
昔からそうだった。
静かに見えると言われることが多い。
実際、騒ぐ方ではない。
でも、古いものを見つけたときだけは違う。
心のどこかにいる幼い自分が、急に前へ出てくる。
あれは何。
これはいつからあるの。
誰が使ったの。
そんな問いが次々に浮かび、身体まで少し軽くなる。
道はやがて森の斜面を下り始めた。
そこでルナリアは、空気の変化に気づいた。
音が違う。
風そのものではない。
もっと深い場所から、ごく弱い振動が伝わってくる。
ルナリアは立ち止まった。
掌を近くの木へ当てる。
樹皮は冷たい。
何も起きない。
次に、足元の石へ触れた。
その瞬間。
指先から腕へ、ごく微かな震えが伝わった。
ルナリアはすぐに手を離した。
驚いた。
痛みはない。
それでも心臓が一度、大きく鳴った。
「レゾナンス……?」
言葉が自然に出た。
だが、確信はない。
古い森では、ときどき強いレゾナンスが残る場所がある。
大きな出来事があった場所。
長い時間、生き物と土地が深く結びついた場所。
何世代にもわたり同じ祈りが続いた場所。
そうしたところでは、触れたものや音に反応することがある。
ただ。
これは少し違う。
記憶の残響のようなものではない。
もっと整っている。
意図的に並べられている。
まるで、何かを運ぶために道そのものへレゾナンスが組み込まれているような。
ルナリアはそこで思考を止めた。
そう見える。
それだけだ。
見えたものを、すぐに答えへ変えない。
長く生きてきた人々ほど、過去について断定したがることがある。
「昔はこうだった」
「これはこういう意味だ」
でも時間は、そんなに親切ではない。
残るのは断片だけだ。
だから彼女は、分からないものを分からないまま持っておくことを大切にしていた。
道をさらに進む。
やがて木々の間に、何かが見えてきた。
石柱。
一本ではない。
二本。
左右に立っている。
どちらも蔦に覆われ、上部には長い年月を思わせる亀裂が走っていた。
そして、そのあいだ。
何もない空間の向こうに、森が続いている。
ルナリアは足を止めた。
門。
そう見える。
だが門扉はない。
壁もない。
二本の柱が、意味もなく森の中に立っている。
近づくにつれ、胸の奥に不思議な懐かしさが生まれた。
知っている。
そんな感覚。
すぐに否定する。
知らない。
ここへ来た記憶はない。
なのに、なぜか。
昔、一度だけ夢で見た場所へ戻ってきたような切なさがあった。
ルナリアは無意識に胸元へ手を添えた。
この感情は自分のものなのか。
それとも、この場所に残った何かなのか。
分からない。
少し悲しい。
でも嫌ではない。
むしろ、もう少しここにいたいと思う。
そのとき。
柱の模様が光った。
ルナリアの身体が硬くなる。
淡い光が下から上へ走り、左右の柱へ広がる。
森の空気が変わった。
鳥の声が止まる。
風が弱まり、葉の揺れまで静かになる。
そして柱の間に。
薄い光が現れた。
最初は霧のようだった。
やがて線になり、線が重なり、半透明の面を作る。
その向こうにあるはずの森が歪んだ。
ルナリアは一歩後ろへ下がった。
怖い。
初めて、はっきりそう思った。
知らないものが好きだからといって、すべての未知が優しいわけではない。
右手が自然に胸元へ上がる。
呼吸を整える。
大丈夫。
まだ何も起きていない。
そう自分へ言い聞かせる。
光の向こうに、景色が浮かんだ。
森ではない。
空。
巨大な谷。
そして遠くに。
崩れた街が見える。
ルナリアは息を止めた。
空に浮いている。
塔。
橋。
白灰色の建物。
見たことがない。
それなのに。
胸の奥の懐かしさが、急に強くなる。
一瞬だけ、視界の端に別のものが重なった気がした。
崩れていない塔。
空を横切る何本もの光。
人影。
水面のように輝く道。
ほんの一瞬。
すぐに消える。
ルナリアは目を閉じた。
心臓が速い。
今のは何だったのか。
記憶ではない。
自分はあの場所を知らない。
ならば想像か。
それとも。
レゾナンスが残した何か。
「……分からない」
声に出した。
その言葉に、少し救われた。
分からなくていい。
今は。
ルナリアはもう一度目を開く。
光の向こうに浮遊都市がある。
しかし、よく見るとそれだけではなかった。
街の一角。
ごく小さく。
いくつかの光が動いている。
人?
距離がありすぎる。
判別できない。
それでも、街が完全に無人ではない可能性が生まれた。
ルナリアは柱へ近づいた。
今度は触れない。
ただ観察する。
模様。
光。
足元の道。
すべてが同じ方向を示している。
あの街へ。
森のどこかで低い音が響いた。
柱の光が一度だけ強くなる。
同時に。
ルナリアの足元の石から一本の光が走った。
森の奥へ。
彼女が来た方向とは逆。
南西。
遠くへ向かって。
一本の線が、木々の下を淡く照らしていく。
ルナリアは振り返った。
光はすぐには消えなかった。
むしろ。
道を示しているように見えた。
浮遊都市へ直接入るのではない。
別の場所へ。
ルナリアの胸に、少しだけ迷いが生まれた。
このまま柱の前に残りたい。
もっと調べたい。
今見えた街について考えたい。
けれど、光は南西へ続いている。
そして何より。
森の外で、何かが始まっている。
そんな感覚があった。
ルナリアはしばらく二本の柱を見つめた。
ここには、また戻れる。
そう思った。
戻れない可能性もある。
だからこそ、今覚えておく。
柱の傷。
苔の位置。
模様の欠け方。
周囲の木々。
この朝の光。
彼女は時間を記憶するように、ゆっくり景色を目に刻んだ。
そして踵を返す。
光の道へ。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
柱の向こうには、まだ空に浮かぶ街が見えている。
ほんの少しだけ胸が高鳴った。
怖い。
懐かしい。
そして。
嬉しい。
まだ世界には、自分が知らない過去がある。
それが今、再び動き始めているのかもしれない。
ルナリアは小さく微笑んだ。
「昔の話なら、聞いてみたいわ」
誰もいない森へそう言って。
彼女は、昨日まで知らなかった道を歩き始めた。
# Chapter 8
## 開かれた門
ヴァレリアの朝は、森よりもずっと早く始まる。
日の出前には城壁の門が開き、荷馬車が石畳を軋ませながら市場へ入り始める。パンを焼く匂いが細い路地から漂い、商人たちの声が広場へ広がる頃には、王都を囲む白い城壁の上を衛兵たちがすでに何度も往復していた。
オーレリアは、その時間の城壁が好きだった。
街がまだ完全に目覚める前、夜の静けさと昼の喧騒が短い時間だけ重なる。高い場所から見れば、昨日まで自分が歩いていた通りも小さく見え、人々の暮らしが一つの大きな流れのように感じられる。
パン屋が火を入れる。
市場へ野菜が運ばれる。
門番が交代する。
誰かが馬の蹄を直し、誰かが子どもの手を引いて通りを渡る。
ひとつひとつは小さい。
けれど、それが毎日途切れず続くことで都市は生きている。
オーレリアにとって「守る」という言葉は、城や王族だけを意味しなかった。
むしろ、こういう朝が明日も同じように来ることの方が大切だった。
だから、その日の最初の報告を聞いたときも、彼女が考えたのは奇跡でも伝説でもなく、人々への影響だった。
「もう一度、最初から話してください」
城壁北側の監視所。
オーレリアの前には若い衛兵が立っていた。まだ勤務を始めて数年ほどだろう。いつもなら報告書を読むだけで済む程度の出来事だったはずなのに、男の顔には困惑が残っている。
「はい。夜明け前、北西の巡回路を確認していた部隊から連絡がありました。旧街道から二キロほど外れた場所に、見覚えのない石造りの道が現れている、と」
「“現れた”というのは、彼らの表現ですか?」
「はい。ただ……昨日の巡回でも同じ場所を通っていて、その時にはなかったと」
オーレリアはすぐには答えなかった。
机の上には簡単な地図が広げられている。北西には農地があり、その先から低い丘陵地帯へ入る。古い遺跡はいくつか残っているが、主要街道から外れた場所に大規模な石造りの道があるという記録はない。
「長さは?」
「まだ確認中です。ただ、少なくとも丘の向こうまで続いているようです」
「幅は?」
「荷車が二台並べる程度、と」
それを聞いた瞬間、オーレリアの眉がわずかに動いた。
細い古道が森の中から見つかった、という話なら珍しくない。
しかし荷車が二台並べるほどの道路となれば話が違う。造るには人手が要る。石材も要る。測量も必要になる。それだけの工事が、記録にも噂にも残らないということは考えにくい。
「通行人は?」
「まだ入れていません。巡回隊が止めています」
「それでいいです」
オーレリアは即座に答えた。
「誰かが勝手に調べに入らないよう、そのまま封鎖してください。ただし、“危険だから近づくな”と大げさに触れ回る必要はありません。騒ぎになると、それ自体が問題になります」
若い衛兵がうなずく。
「軍を出しますか?」
その質問に、オーレリアは少しだけ考えた。
「まだ早いでしょう」
兵を動かせば、それだけで街には意味が生まれる。
敵が来た。
危険がある。
何か重大なことが起きた。
真実が分からない段階で強い行動を取れば、人々は行動そのものから意味を読み取る。
恐怖は、事実より速く広がる。
「まず小規模の調査隊を出します。道が実在するのか、どこまで続いているのか、周囲に人や獣の痕跡があるか。それだけ確認してください。何か見つけても、勝手に持ち帰らないように」
そこまで言ったところで、部屋の扉が叩かれた。
「失礼します」
別の衛兵が入り、封をされた紙を差し出した。
「東門から緊急報告です」
「東?」
オーレリアは封を開く。
数行読んだところで、顔から表情が消えた。
北西だけではない。
王都から東へ一日の距離にある農村でも、同様の石道が見つかっている。
しかもそこでは、道の脇に立つ古い石柱が一度だけ光ったという。
オーレリアは紙を机へ置いた。
「北西の話を、東の守備隊は知っていますか?」
「いいえ。まだ伝えていません」
つまり、噂が伝わった結果ではない。
少なくとも二つの場所で、別々に同じ種類の異変が起きている。
オーレリアは窓の向こうを見る。
朝日がようやく城壁を越え、街の屋根を照らし始めていた。
いつもの朝だった。
市場では人が動き始め、煙突から細い煙が上がり、遠くで鐘が鳴っている。
それなのに、昨日までの世界と今日の世界はもう同じではないのかもしれない。
その考えに、胸の奥がわずかにざわついた。
怖さではない。
少なくとも最初は。
むしろ、知りたいという小さな気持ちが生まれていた。
どんな道なのだろう。
どこへ続いているのだろう。
なぜ今なのか。
その感情に気づいた瞬間、オーレリアは自分で少し可笑しくなった。
こんなときにも興味を持つのか。
けれど、すぐに気持ちを切り替える。
自分が最初に考えるべきことは、そこではない。
「北西と東、両方の情報を一か所に集めてください。他の地方守備隊にも確認を。似た報告があっても、今は公表しないように」
「承知しました」
「それから、商人組合にもそれとなく聞いてください。見慣れない道を使った者がいないか。ただし調査だと悟られない程度に」
衛兵が出ていくと、部屋に静けさが戻った。
オーレリアは机に両手をつき、地図を見下ろす。
北西。
東。
二つの地点を指で確認する。
もし他にもあるなら。
線で結べるのだろうか。
何かを中心にしているのか。
それとも、ただ散らばっているだけなのか。
考えていると、扉がまた開いた。
今度は彼女より年上の男性騎士だった。
「聞いたぞ」
「早いですね」
「“知らない道が突然出た”なんて話は、放っておいても広がる」
男は机の地図を見る。
「危険だと思うか?」
オーレリアはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「珍しく慎重だな」
「分からないものを危険と決めるのも、安全と決めるのも同じくらい雑でしょう」
男性騎士は少し笑った。
「相変わらずだ」
オーレリアも小さく笑い返した。
「褒め言葉として受け取っておきます」
彼女は地図を指した。
「ただし、無視はできません。道路が本当に突然現れたのなら、人の移動そのものが変わります」
「敵軍が通れる」
「それもあります。でも、それだけではありません」
オーレリアは少し身を起こした。
「商人が使えば流通が変わります。村と村の距離が変われば、人の集まり方も変わる。国境を越える道なら税や検問の仕組みも変えなければならない。危険な場所につながっている可能性もあれば、今まで行けなかった場所へ行ける可能性もある」
男性騎士が腕を組む。
「道一本でそこまで考えるか」
「道は、人を運びますから」
オーレリアは自然にそう答えた。
「人が動けば、お金も、物も、情報も動きます。場合によっては軍も」
言葉にしながら、自分の中で問題の輪郭が少しずつ見えてくる。
未知の道がある。
それ自体よりも、その道によって何が変わるか。
オーレリアには、そちらの方が重要だった。
けれど。
心のどこかでは。
やはり一度、自分の目で見てみたいと思っている。
「行くつもりだろ」
突然言われ、オーレリアは顔を上げた。
「何がです?」
「北西の道」
「なぜそう思うんですか」
「さっきから地図を見る顔が、会議の時と違う」
オーレリアは少し困った顔をした。
「どんな顔ですか」
「子どもが、開けるなと言われた箱を見てる顔」
「そんな顔はしていません」
「してる」
即答され、オーレリアは思わず笑った。
声を立てるほどではない。
けれど、朝から張り詰めていたものが少しほどける。
それでも彼の指摘は当たっていた。
行きたい。
実際に見たい。
それは否定できない。
問題は、行く理由を好奇心だけにしてはいけないということだった。
「調査隊が戻ってから判断します」
「それが普通だな」
「でしょう?」
「でも君は行くと思う」
オーレリアは答えなかった。
男は笑いながら部屋を出ていった。
一人になる。
静かな部屋。
開いた地図。
窓の外から聞こえる街のざわめき。
オーレリアは小さく息を吐いた。
責任。
その言葉は、時々重い。
誰かを守る立場にいれば、自分がやりたいことより先に、やるべきことを考えるようになる。
それは嫌ではなかった。
むしろ、自分で選んだ生き方だ。
ただ時々、ほんの少しだけ。
何も背負わず、知らない道を歩いてみたいと思うこともある。
その思いを、彼女は普段あまり口にしない。
誰かに隠しているというより、自分でも優先順位を下げているだけだった。
オーレリアは地図を畳んだ。
その時、城の下から鐘が鳴った。
一度。
二度。
通常の時刻を知らせる鐘ではない。
警戒を知らせる短い鐘。
オーレリアの身体が反射的に動いた。
椅子から立ち上がり、腰の剣を確認する。
廊下へ出る。
衛兵たちが走っている。
「何があった?」
一人を呼び止める。
「西門です。門の外で異常が!」
オーレリアはそのまま階段を駆け下りた。
長い黒髪が背中で揺れる。
白と濃紺の外套が足にまとわりつきそうになり、片手で軽く持ち上げる。
城を出る頃には、すでに数人の騎士が集まっていた。
西門へ近づくにつれ、人の声が増える。
門の外に野次馬が集まり始めていた。
オーレリアは足を止めずに指示を出した。
「人を下げてください。門は閉じないで。閉じれば余計に騒ぎになります。衛兵を二列にして、近づけないだけでいい」
指示がすぐに伝わる。
人垣が少しずつ押し戻される。
オーレリアは門を抜けた。
そして。
歩みを止めた。
城壁の外。
普段なら土の道が農地へ延びている場所。
そこに、別の道があった。
白灰色の石畳。
真っ直ぐ。
広い。
昨日まで確実になかった。
道の両側には、細い石柱が等間隔に立っている。
人々のざわめきが背後から聞こえる。
誰も近づこうとはしない。
オーレリアも、数秒間はただ見つめていた。
報告書を読むのとは違う。
地図に印をつけるのとも違う。
目の前にある。
確かに。
胸が高鳴った。
恐怖。
警戒。
そして、それらと同じくらい。
驚き。
少しだけ、嬉しさまであった。
未知が目の前にある。
その感情に気づき、オーレリアは自分でも戸惑った。
しかしすぐ、道の先へ視線を移す。
安全を確認しなければならない。
まずは人を近づけない。
次に道の状態を確認する。
周囲の地形。
石柱。
足跡。
危険物。
考えるべきことが自然に頭へ並び始める。
その時だった。
道の脇に立つ最初の石柱が光った。
淡い青白い光。
群衆から短い悲鳴が上がる。
「下がって!」
オーレリアの声が響いた。
騎士たちがすぐに動く。
彼女自身も剣の柄へ手を置く。
けれど抜かなかった。
石柱は攻撃してこない。
一本目。
その先の二本目。
さらに三本目。
光が順番に道の奥へ進んでいく。
誰かが火を灯していくように。
オーレリアは息を忘れるほど、その光を見つめた。
遠い。
どこまで続いているのか分からない。
やがて地平近くで、最後の光が小さく瞬いた。
そして。
さらにその向こう。
空の一角が淡く揺らいだ。
一瞬だけ。
巨大な塔の影のようなものが見えた。
オーレリアは目を細める。
もう消えている。
「今のを見た人は?」
周囲の騎士たちが何人かうなずいた。
見間違いではない。
オーレリアは道を見る。
恐怖はまだある。
だが、それ以上に、問題がはっきりした。
この異変は王都の外で起きているだけではない。
ここまで来た。
ヴァレリアそのものへ。
そして同時に、彼女自身の中でも何かが決まった。
もう、人から聞くだけでは足りない。
自分で見なければならない。
「調査隊を編成します」
隣の騎士が彼女を見る。
「今から?」
「今日中に」
「誰を行かせる?」
オーレリアは道の先を見つめたまま答えた。
「私も行きます」
「やっぱりな」
背後から聞き覚えのある声がした。
朝、部屋へ来た男性騎士だった。
オーレリアは振り返らず、小さく息を吐く。
「その顔、やめてください」
「見えてないだろ」
「分かります」
男が笑った。
オーレリアも、今度は少し素直に笑った。
そして再び道を見る。
昨日まで存在しなかった道。
どこへ続くのかは分からない。
危険なのかもしれない。
何かを失うかもしれない。
それでも。
もし世界の形が変わり始めているのなら、誰かが確かめなければならない。
人々を守るために。
国を守るために。
そしてほんの少しだけ。
自分自身が、その先を見たいから。
オーレリアは腰の剣へ手を添えた。
石柱の光はすでに消えていた。
それでも、道だけは残っている。
まるで最初からそこにあったかのように。
# Chapter 9
## 足元から始まる道
自由都市アルダンでは、知らない音楽が聞こえてきたら、まず立ち止まるより先に近づいてみる者の方が多い。
夕方の中央広場は、いつも以上に人で埋まっていた。果物を山のように積んだ露店、細い串に肉を刺して焼く屋台、色鮮やかな布を軒先から垂らした商人たち、その隙間を縫うように走り回る子どもたち。建物の上階からは洗濯物が風にはためき、広場の中央では数人の演奏家が太鼓と弦楽器、笛を持ち寄って、誰が始めたともなく即興の曲を奏でていた。
整っているとは言い難い街だった。
通りは場所によって幅が違い、建物も新しいものと古いものが入り混じっている。広場へ面した三階建ての宿の隣には、百年以上前からあるという小さな工房があり、その向かいには数年前に建ったばかりの派手な商館がある。それぞれが好きな時代に、好きな理屈で増えてきたような街並みだった。
けれどタリアは、このまとまりのなさが好きだった。
きれいに揃っていないから、誰か一人の決めた形に合わせなくていい。
その日も、演奏が少し速くなったところで、身体の方が先に反応した。
腰が自然にリズムを拾い、右足が石畳を軽く叩く。次の瞬間には肩が動き、両腕が音の流れに合わせて広がった。
「また始まった」
近くで飲み物を売っていた女性が笑う。
「まだ踊るって言ってないよ」
「その足で?」
言われてタリアは自分の右足を見る。
確かにもう動いている。
「これは準備」
「何の?」
「分からない」
そう答えると、女性は声を立てて笑った。
タリア自身も笑いながら、広場の中央へ歩いていった。
演奏家の一人が彼女に気づき、太鼓を少し強く叩く。それに応えるように弦の旋律が跳ね、周囲の人々が自然に円を作り始めた。
舞台はない。
照明もない。
誰かが観客で、誰かが演者だという境界も曖昧だった。
タリアはそういう場所で踊るのが一番好きだった。
人に見せるための踊りが嫌いなわけではない。拍手をもらえば嬉しいし、難しい動きがきれいに決まれば身体の奥が明るくなる。誰かが笑ってくれたり、落ち込んでいた人が少し元気になったりすれば、それも素直に嬉しい。
ただ、ときどき踊りが「うまく見せるもの」に変わりすぎる瞬間がある。
次は何を見せる。
どこで驚かせる。
誰より大きく動く。
そんなことを考え始めると、身体が少し重くなる。
けれど今は違った。
太鼓が鳴る。
足が動く。
誰かが笑う。
その笑いを聞いて、さらに身体が軽くなる。
それだけで十分だった。
タリアは一度大きく踏み込み、身体を低く落としてから、弧を描くように回った。水色の布が遅れて身体の周囲を追い、長い髪が風を含んで広がる。着地した足の裏から石畳の硬さが伝わり、その反発を使ってもう一度身体を上へ持ち上げる。
太鼓が速くなる。
タリアも速くなる。
周囲から手拍子が始まった。
一人。
二人。
十人。
やがて広場のあちこちから同じ拍が返ってくる。
タリアはその瞬間が好きだった。
自分が踊っているのに、自分だけで踊っていない。
音楽があり、地面があり、人の声があり、誰かの手拍子がある。その全部に身体を預けると、自分の動きが少しだけ大きくなる。
レゾナンスという言葉を、タリアは難しく考えたことがない。
誰かが理屈を説明しているのを聞いたことはある。
音と身体。
感情と場所。
人と人。
いろいろなものが響き合う現象。
でもタリアにとって、それはもっと単純だった。
踊っていて気持ちいいとき。
周りの人も少し楽しそうになるとき。
自分の一歩が誰かの一歩につながるとき。
それがレゾナンスなら、それでいいと思っていた。
曲が一度大きく跳ねた。
タリアも合わせて足を踏み込む。
石畳へ、踵が触れた。
その瞬間。
違う。
身体が先に気づいた。
タリアの動きが止まる。
ほんの一瞬だった。
太鼓は鳴っている。
手拍子も続いている。
誰も異変には気づいていない。
それでも足の裏に残った感覚が、いつもの石畳とは違った。
タリアはもう一度右足で地面を軽く叩いた。
硬い。
普通の石だ。
けれど。
少し遅れて、足裏へ振動が返ってきた。
タリアは眉を上げた。
「……なにこれ」
演奏は続いている。
彼女は踊りを再開した。
ただし今度は、音楽だけではなく地面を感じながら。
一歩。
返る。
二歩。
また返る。
太鼓とは違う。
手拍子とも違う。
もっと低い。
地面の下を何かが走っている。
タリアの表情から笑みが少し消えた。
怖いというより、戸惑っている。
身体というのは、頭より正直だ。
危ない場所では肩が硬くなる。
楽しい場所では呼吸が深くなる。
そして今、足の裏は「何かある」と言っている。
曲が終わった。
広場に拍手と歓声が広がる。
タリアもいつものように両手を上げ、笑って頭を下げた。
けれど視線は足元へ向いていた。
演奏が止まっても。
振動が消えない。
「タリア?」
演奏家の一人が近づいてきた。
「どうした?」
「ちょっと静かにしてもらっていい?」
「今?」
「十秒だけ」
彼女の表情を見て、相手も冗談ではないと気づいたらしい。
周囲へ声をかけ、楽器を止める。
完全な静寂にはならない。
商人の声。
笑い声。
食器が触れる音。
遠くを走る荷車。
街は生きている。
そのすべての下で。
ドン。
タリアの足裏に振動が来た。
一定の間隔。
少し待って。
また。
ドン。
「感じる?」
タリアが尋ねる。
演奏家は地面を見る。
「何を?」
「下から来てる」
彼も足を踏んでみる。
しばらく首を傾げた後、首を横に振った。
「俺には何も」
「そっか」
タリアは唇を少し尖らせた。
自分だけ。
それはあまり好きな状況ではない。
特別だから嬉しい、とはならなかった。
むしろ自分が間違っている可能性が増える。
もう一度しゃがみ込み、手のひらを石畳へ置いてみた。
今度は感じる。
微かな振動が指先を抜け、腕へ上がってくる。
一定の拍。
音楽ではない。
それでも完全に無秩序でもない。
「待って」
タリアは立ち上がった。
広場を見渡す。
そして一歩進む。
振動が少し強くなる。
左へ。
弱くなる。
右。
また強い。
タリアの身体は自然に進む方向を選んだ。
「どこ行くの?」
「ちょっと足が気になる」
「足?」
「説明すると変だから、あとで」
そう言って歩き始める。
演奏家が困ったように笑った。
「変なのはいつもじゃない?」
「今日は種類が違う」
タリアは振り返って笑う。
不安がないわけではない。
けれど、身体の中にはそれより強いものが生まれ始めていた。
面白い。
何だろう。
確かめたい。
その感情が歩幅を自然に大きくする。
広場を抜けると、市場の人混みは少しずつ薄くなった。香辛料や焼いた肉の匂いが遠ざかり、代わりに石壁の冷たい匂いと、風に混じった乾いた土の匂いが強くなる。
タリアは細い路地へ入った。
洗濯物が頭上を横切り、建物の間から夕方の光が斜めに差し込んでいる。
振動は続いている。
ドン。
少し進む。
ドン。
タリアはその間隔に合わせて、無意識に足を運んでいた。
右。
左。
右。
途中でそれに気づき、思わず笑う。
「道案内までリズムなの?」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
不思議と怖さが薄れた。
身体にとって、規則があることは安心につながる。
次が分かる。
拍が来る。
それに合わせて進める。
タリアは小さく跳ねるように歩いた。
それが少し楽しかった。
しかし、路地を二つ曲がったところで、表情が変わった。
知っている場所だった。
街の南側。
ほとんど使われなくなった古い広場。
昔は小さな市場だったらしいが、今は倉庫と古い建物に囲まれ、昼でも人通りが少ない。
タリアも何度か来たことがある。
そこで彼女は足を止めた。
「……これ、なかったよね」
広場の中央に。
石の円があった。
地面に埋め込まれた巨大な円。
直径は十数歩ほど。
その内側に、細かな線と模様が幾重にも重なっている。
周囲の石畳と同じように古び、ところどころには苔まである。
まるで何十年も前からそこにあったように。
タリアは少し寒くなった。
ここは知っている。
何度も通った。
この円はなかった。
少なくとも、見えてはいなかった。
胸の高鳴りが、今度は純粋な楽しさだけではなくなる。
不安。
少しの恐れ。
それでも好奇心は消えない。
タリアは円の縁へ近づいた。
一歩踏み込む。
足の裏へ強い振動が返った。
「うわ」
思わず足を引く。
痛くはない。
むしろ。
身体が一瞬だけ軽くなった。
肩。
胸。
腰。
膝。
自分の中心を一本の線が通ったような感覚。
タリアは目を瞬いた。
「今の、ちょっと好きかも」
自分で言ってから笑った。
怖いのに。
少し楽しい。
この二つが一緒にあることが、妙に自分らしく思えた。
タリアはもう一度円へ足を乗せた。
今度は慎重に。
振動が来る。
身体の中心へ入る。
タリアは息を吸った。
そして、ごく小さく一歩踏む。
返ってくる。
もう一歩。
また返る。
まるで地面と踊っている。
タリアの口元に自然と笑みが浮かんだ。
試しに半歩回る。
円の模様の一部が淡く光った。
笑みが消える。
「え?」
足を止める。
光も止まる。
もう一度動く。
今度は別の線が光った。
タリアはしばらく動けなかった。
自分が起こしている。
そう考えると急に怖くなる。
もし壊したら。
もし危険なものを動かしているなら。
今までなら、「まあ大丈夫」と続けていたかもしれない。
でも身体は、今度は少し緊張している。
楽しいだけではない。
タリアは円の外へ出た。
光が消える。
しばらく何も起きない。
胸の中に、小さな残念さが生まれた。
それに気づいて苦笑する。
「怖いのか、続けたいのか、どっちなの」
答えは両方だった。
タリアは円を見る。
踊りは、自由だと思っている。
でも自由というのは、好きなように動けばいいという意味ではない。
相手がいるなら相手を見る。
床が滑るなら歩幅を変える。
音が変われば、自分も変わる。
自由に動くためには、周りを感じる必要がある。
タリアはそういうことを、頭ではなく身体で覚えてきた。
だったら。
この円が何なのか分からないなら。
まず聞いてみればいい。
身体で。
タリアはゆっくり中央へ戻った。
今度は大きく踊らない。
一歩。
待つ。
地面から振動。
もう一歩。
少し違う位置へ。
返事。
タリアは目を閉じた。
街の音が遠くなる。
自分の呼吸。
足裏。
地面。
振動。
その四つだけに意識を向ける。
一歩。
一歩。
身体が自然に動き始める。
派手ではない。
誰かに見せるためでもない。
ほんの小さな移動。
重心を右へ。
左へ。
身体を開く。
戻す。
そのたびに、円の中の線が少しずつ光った。
光は足元から広がり、やがて円全体へ走っていく。
タリアは驚いて目を開けた。
しかし動きを止めなかった。
何となく、今止めてはいけない気がした。
最後に。
右足を一度だけ強く踏む。
ドン。
地面の奥から、同じ振動が返った。
円全体が光った。
そして。
広場の南側。
何もなかった石壁の前に、一本の道が現れた。
最初は光だけだった。
やがて石畳が見える。
古い道。
細い柱。
その向こうには、街の外へ続く夕暮れの景色。
タリアは完全に動きを止めた。
息が上がっている。
踊ったからだけではない。
目の前の出来事に、心臓が追いついていない。
「……本当に?」
誰も答えない。
広場には彼女しかいない。
道は静かにそこにある。
タリアは笑いそうになった。
でも笑えなかった。
少し怖い。
自分が何かを開いた。
その実感が重い。
同時に。
嬉しい。
胸の奥のどこかが、強く鳴っている。
知らない道。
知らない場所。
しかも、自分の身体がその存在に触れた。
タリアは道の前まで歩いた。
しかし、すぐには入らなかった。
以前の自分なら入っていたかもしれない。
面白そう。
それだけで。
今も入りたい。
その気持ちは変わらない。
でも。
自分が踊ったことで道が現れたのなら、何が起きたのかくらいは知ってから進みたい。
自由は、考えないことではない。
それを少しだけ覚え始めていた。
タリアは道を見つめたまま、ゆっくり息を整えた。
そのとき。
道の奥で。
ごく淡い光が一つ灯った。
さらに遠くで、もう一つ。
まるで何かがこちらへ向かって、順番に目を覚ましていくように。
タリアの身体がまた少し軽くなる。
怖い。
でも。
やっぱり行ってみたい。
彼女は笑った。
今度は、はっきりと。
「うん。これはたぶん、行くやつだ」
誰もいない古い広場でそう言ってから、タリアは一度だけ街の中心へ振り返った。
戻って準備をする。
誰かにも話す。
その上で。
あの道を歩いてみる。
夕暮れの空の下、昨日までなかった道は静かに光り続けていた。
そしてタリアの足元には、まだ微かなリズムが残っていた。
# Chapter 10
## 山の下で鳴るもの
山の朝は、音より先に冷たさで始まる。
夜明け前の空はまだ濃い青を残しており、東の稜線だけが少しずつ白み始めていた。修道院の石床には夜の冷気が残り、裸足で立つと足の裏から細い痛みのような感覚がゆっくり上がってくる。遠くでは風が岩肌を撫で、さらに下の谷からは水の流れる音が微かに届いていたが、この高さまで来ると、そのどれもが大きな音にはならず、空気の中に溶けるように消えていく。
リアンは、その静けさの中で呼吸していた。
吸う。
止めない。
吐く。
また吸う。
何かを考えないようにしているわけではない。むしろ、考えが浮かんでも追わない。今日の予定、昨日の稽古、少し痛む右肩、朝食に出るだろう薄いスープ。どれも一度意識へ上がり、そのまま流れていく。
目の前には何もない。
ただ石床があり、その向こうに低い石壁があり、さらに先には深い山々が広がっている。
ここから見る世界は大きい。
だが、身体の中へ意識を戻せば、世界は足の裏ほどの広さにもなる。
リアンはそれが好きだった。
世界がどれほど不安定でも、自分の呼吸だけは今ここにある。身体の中心がどこにあるか分かれば、次の一歩を決められる。
少なくとも、これまではそう思っていた。
その朝。
吐く息の途中で、足元から振動が来た。
リアンの目が開いた。
小さい。
気のせいと言えば、それで終わる程度のものだった。
けれど、彼は動かなかった。
呼吸を戻す。
吸う。
吐く。
待つ。
もう一度。
低い振動が、石床の奥から伝わってきた。
ドン。
音というより、身体で感じるものだった。
リアンは眉を寄せた。
地震。
最初にそう考えた。
だが、揺れ方が違う。大地が動いているのではなく、どこか遠くで大きなものが脈打ち、その震えだけが石を通って届いているように感じた。
彼は姿勢を崩さず、もう一度呼吸する。
振動は来ない。
少し間を置いて、もう一度。
ドン。
一定ではない。
しかし無秩序でもない。
その曖昧さが、妙に気になった。
「考えすぎるな」
背後から声がした。
リアンは振り返らなかった。
声の主は、修道院で長く暮らす年上の修行者だった。年齢はリアンの倍ほどだが、彼を師と呼ぶ者もいれば、単に古参と呼ぶ者もいる。本人はどちらでもいいと言っていた。
「考えていません」
「そういう時ほど考えてる」
リアンは少しだけ笑った。
「地面が鳴った気がしたんです」
「気がした?」
「二回」
「じゃあ三回目を待て」
その答えに、リアンはようやく振り返った。
「確認しなくていいんですか」
男は肩をすくめた。
「確認してもいい。しなくてもいい。ただ、二回で世界の真理にしない方がいい」
リアンは思わず笑った。
「そこまでは考えてません」
「顔がそうだった」
「そんな顔してましたか」
「してた」
男はそれだけ言うと、石段を下りていった。
リアンは再び正面を向いた。
少し肩の力が抜ける。
自分でも分かっている。
何か違和感があると、その正体を内側から探しすぎることがある。
呼吸。
身体。
重心。
振動。
普段なら、それで多くのことが分かる。
だからこそ、分からない時に少し苛立つ。
リアンは目を閉じた。
三回目。
待つ。
来ない。
空が少しずつ明るくなっていく。
朝日が山の端から顔を出し、石床の一部を金色に染めた。
リアンは一度大きく息を吐き、立ち上がった。
その時。
ドン。
今度は、はっきりした。
そして同時に。
修道院の奥から、鐘が鳴った。
通常の朝の鐘ではない。
短く。
三度。
異常を知らせる合図。
リアンの身体が自然に動いた。
考えるより先に、石段を下りる。
呼吸を乱さない。
足を急がせても、重心は崩さない。
修道院の中庭へ入ると、すでに十数人が集まり始めていた。
壁際には古い武具が並び、中央には大きな水鉢がある。その水面が細かく震えていた。
リアンは足を止めた。
風ではない。
水面の波が、外から内へではなく、中心から外へ広がっている。
「地下だ」
誰かが言った。
「また振動が来た」
「今朝から?」
「いや、昨夜にも一度あったらしい」
声が重なる。
リアンは水鉢のそばへしゃがみ込んだ。
水面を見る。
細かな波。
その間隔。
足元の感覚と同じ。
「下からです」
周囲が静かになった。
年長の修行者が一人、リアンを見る。
「分かるのか」
「たぶん。でも、地震みたいに広くない。もっと……一つの場所から伝わってる感じです」
言いながら、自分でも少し違和感を覚えた。
下。
それは分かる。
でも、どの深さなのかは分からない。
修道院は高い山の上にある。
そのさらに下。
山の内部。
あるいはもっと深く。
この地方には、古くから大地の裂け目がある。
オルダン・ディープ。
地上からは底が見えず、いくつもの洞窟と地下空間が重なっていると言われる場所。
修道院は、その縁に近い山へ建っている。
リアンも子どもの頃から話を聞いていた。
下には古い道がある。
昔の街が眠っている。
声を出すと返事が返る洞窟がある。
話の多くは、どこまでが事実か分からない。
しかし。
もし今の振動が、その地下から来ているのだとしたら。
胸の奥に、微かな不安が生まれた。
そして同時に。
興味。
自分でも、それに気づいた。
少しだけ嬉しい。
なぜだろう。
分からない。
ただ、ずっと閉じていた何かが、こちらへ向かって小さく叩いているように感じた。
その感覚が、妙に気になった。
「リアン」
呼ばれて顔を上げる。
年長の修行者がこちらを見ている。
「東の下層へ行く。お前も来るか」
リアンは一瞬だけ迷った。
行きたい。
身体はもうそう言っている。
ただ、その理由が好奇心だけなのかは分からない。
自分が振動を感じ取れるなら、役に立つかもしれない。
「行きます」
短く答えた。
それから少し考えて付け加える。
「ただ、地下へ入る前にもう一度、地上で方向を見たいです」
年長者は頷いた。
「それでいい」
リアンは中庭を出て、修道院の東側へ向かった。
そこは普段ほとんど使われない場所だった。
建物の裏手から細い石段が続き、その先に低い壁がある。壁を越えれば、山肌が急に落ち込み、遥か下に深い谷が見える。
朝の霧が谷底に溜まり、その下はほとんど見えない。
リアンは石壁の前に立ち、目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
足の裏。
膝。
腰。
背中。
身体の中心を確かめる。
そのまま待つ。
来た。
ドン。
今度は、少し左。
リアンは身体の向きを変える。
もう一度。
ドン。
少し強い。
振動だけを追う。
身体を静かにしていると、方向が少しずつ分かる。
山の下。
東南東。
オルダン・ディープの縁に近い。
リアンは目を開けた。
その時。
石壁の向こうで、何かが光った。
谷の霧の下。
遠い。
最初は朝日が石に反射しただけだと思った。
しかし光は消えない。
むしろ。
一つ。
その先にもう一つ。
さらにもう一つ。
線を描くように、谷の下へ続いていく。
リアンは思わず身を乗り出した。
「そんなところに……」
道がある。
いや。
道だった。
霧の下から、古い石段の一部が見える。
山の斜面に沿って。
下へ。
さらに下へ。
これまで崩落した岩と土に隠れていたはずの場所。
リアンはそこを何度も見たことがある。
あんな道はなかった。
少なくとも。
見えてはいなかった。
胸の奥に、少し冷たいものが走った。
自分の知っている場所が、急に知らない場所へ変わる。
それは思ったより不安になる。
地面が確かだと思っていた。
山は動かないものだと思っていた。
その前提が、少しだけ崩れる。
リアンは深く息を吸った。
急がない。
まず呼吸。
そう自分へ言い聞かせる。
もう一度、谷を見る。
光は続いている。
古い石段。
細い柱。
その一つ一つが、淡く光っている。
そして一番下。
霧の奥。
何か大きなものがある。
輪郭だけが見える。
門。
あるいは。
巨大な入口。
そこから、また振動が来た。
ドン。
今度は足ではなく、胸まで響いた。
リアンの身体が一瞬硬くなる。
怖い。
はっきりそう思った。
けれど同時に、奇妙な感覚があった。
懐かしい。
その言葉が浮かぶ。
すぐに否定する。
ここへ来たことはない。
あの場所も知らない。
それなのに。
呼吸の奥に、知っているリズムがあるような気がする。
リアンは無意識に右手を胸へ当てた。
自分の鼓動。
ドクン。
少し間を置いて。
地下から。
ドン。
似ている。
完全に同じではない。
でも。
呼び合っているように感じた。
レゾナンス。
その言葉が自然に浮かぶ。
修道院でも、呼吸や身体の振動についてレゾナンスという言葉を使うことがある。
相手の動きを読む。
自分の呼吸を周囲に合わせる。
力をぶつけず、流れを受けて返す。
それも一つのレゾナンスだ。
しかし、これは身体の中だけの話ではない。
山そのものが。
地下の何かが。
こちらへ振動を返している。
リアンの胸が、少し高鳴った。
怖さは消えない。
でも、そこに好奇心が混ざり始める。
もっと近くで感じてみたい。
あの振動が何なのか知りたい。
その気持ちに気づいた瞬間、リアンは自分でも少し困ったように笑った。
「結局、行きたいのか」
誰に言うでもなく呟いた。
「聞こえたぞ」
背後から声がした。
振り返ると、さっきの年長者が立っている。
「どこまで?」
「“行きたい”から」
リアンは少し恥ずかしくなった。
「独り言です」
「知ってる」
年長者は谷を見る。
光の道を見て、さすがに表情を変えた。
「これは……」
しばらく言葉が続かなかった。
リアンは少しだけ嬉しくなった。
自分だけがおかしいわけではない。
目の前のものは、本当に普通ではない。
「下へ行きますか」
リアンが尋ねる。
年長者はすぐには答えなかった。
谷。
道。
霧。
そして地下へ続く入口。
全部を見た後で、ゆっくり口を開く。
「行く。ただし、急がない」
リアンは小さく笑った。
「それ、僕が言う方じゃないですか」
「お前は意外と急ぐ」
「そうですか?」
「身体は静かでも、頭が先に行くことがある」
少し図星だった。
リアンは苦笑する。
「気をつけます」
二人は修道院へ戻った。
地下へ降りる準備は簡単ではない。
縄。
灯り。
水。
簡単な食料。
武具。
崩落に備える道具。
リアンは自分の装備を確認しながら、不思議なことに気づいた。
身体が軽い。
緊張している。
それなのに、動きやすい。
何か新しいことを始める前の感覚に似ている。
怖さと楽しさが、同じところにある。
午前の半ばには、小さな隊が東側の石段へ集まった。
リアンを含めて五人。
それ以上は多すぎるという判断だった。
石段を下り始める。
一歩。
また一歩。
光る道は、下へ続いている。
最初のうちは修道院からも見えていた。
しかし高度が下がるにつれ、建物は岩陰へ隠れ、空も狭くなる。
周囲の音も変わった。
風が弱まり、代わりに自分たちの足音が岩壁へ返ってくる。
リアンは先頭から二番目を歩いた。
足元を確かめる。
呼吸を整える。
ときどき地面から来る振動を感じる。
そのたび、少しずつ方向がはっきりする。
下だ。
さらに下。
道は間違っていない。
途中で、古い石柱が一本倒れていた。
表面には円と線の模様。
リアンはそれを見て足を止めた。
「この模様」
「知ってるのか?」
「いいえ。でも……」
どこかで見たことがある気がする。
思い出そうとしても出てこない。
自分の記憶ではない。
そんな感覚まである。
リアンは手を伸ばさなかった。
今は先へ進む。
やがて石段は広い岩棚へ出た。
そこから先。
巨大な裂け目が開いている。
オルダン・ディープ。
噂では知っていた。
でも近くで見るのは初めてだった。
暗い。
底が見えない。
岩壁の奥にいくつもの空洞があり、その一部から青白い光が漏れている。
そして。
裂け目を跨ぐように、古い橋があった。
半分壊れている。
しかし中央部分は残っている。
その先。
岩壁の中へ、大きな門が埋まっていた。
地上から見えたものだ。
リアンは息を止めた。
門の表面には、街のものとは比べものにならないほど複雑な模様が刻まれていた。幾重もの円が重なり、その間を細い線が走り、中心には縦長の空洞がある。
周囲の修行者たちも言葉を失っている。
誰もすぐには近づかなかった。
リアンはただ、呼吸した。
吸う。
吐く。
振動。
来る。
ドン。
門の中心から。
リアンの胸へ。
今までで一番はっきりした。
そしてその瞬間。
門の模様が、一斉に光った。
五人が身構える。
地面が低く震える。
岩壁の奥から何かが動くような音。
リアンの心臓が速くなる。
怖い。
それでも。
逃げたいとは思わなかった。
むしろ。
ここまで来て初めて、何かがつながったような感覚があった。
あの振動は。
ずっとこの場所から来ていた。
リアンは一歩前へ出た。
「待て」
年長者が止める。
リアンはその場で止まった。
急がない。
自分に言い聞かせる。
門の光がゆっくり中心へ集まっていく。
そして。
その中央に。
一つの像が浮かんだ。
地図。
そう見えた。
山。
森。
都市。
海。
いくつもの光点。
その中のいくつかが、すでに灯っている。
リアンは息を飲んだ。
自分たちのいる場所らしき一点。
そこから。
遠くへ伸びる線。
ひとつ。
ふたつ。
そして。
さらに遠い場所で。
また一つ。
新しい光が灯った。
リアンは、その瞬間になぜか分かった。
自分たちだけではない。
別の場所でも。
誰かが。
同じものを見ている。
同じ道を見つけている。
同じように、世界の変化へ気づき始めている。
もちろん、確信はない。
ただの感覚かもしれない。
それでも胸の奥には、妙に温かいものが広がった。
孤独ではない。
そう感じた。
リアンは小さく息を吐く。
肩の力が抜ける。
そして笑った。
「何がおかしい」
年長者が聞く。
「分かりません」
「またそれか」
「でも……」
リアンは光る地図を見る。
「世界が、動き始めてる気がします」
その言葉の直後。
門の奥から。
低い振動が返ってきた。
ドン。
リアンの足元で。
今度は。
地面だけではなく。
どこか遠い場所からも。
いくつもの小さな振動が重なるように感じた。
山の上。
森の奥。
都市。
知らない街。
知らない人。
それぞれ別の場所で。
何かが、少しずつ目を覚ましている。
リアンはもう一度深く息を吸った。
まだ先へは行かない。
まず、ここにいる。
目の前にあるものを見る。
それから。
次の一歩を決める。
そう思うと、不思議なくらい心が静かになった。
そして巨大な門は、光を残したまま。
ゆっくりと。
ほんのわずかに。
開き始めた。
Chapter 11
遠くで灯るもの
透明な板の上で、新しく灯った光は消えなかった。
シアンたちはしばらく誰も言葉を発さず、その一点を見つめていた。板の表面には大小さまざまな光点が散らばり、細い線で結ばれたものもあれば、完全に暗く沈んでいるものもある。もしこれが本当に地図であり、それぞれの光が何らかの場所を示しているのだとすれば、自分たちが立っている浮遊都市は、巨大な何かの中の一部分にすぎないことになる。
ここへ来る途中で出会った石の番人は、もう追ってきてはいなかった。シアンたちがその横を通り過ぎたあとも、しばらく街路の端に立ったままこちらを見送るようにしていたが、やがて胸元の淡い光を一度だけ灯すと、それ以上は動かなくなった。目のように見えていた二つの光も消え、今では遠くから見れば、風雨に削られた古い石像とほとんど区別がつかない。自分たちを「通してよい」と判断したのか、それとも決められた確認を終えただけなのかは分からなかったが、少なくとも追跡してくる様子も、敵意を示す気配もなかった。
ケイルは歩きながら、「たぶん、俺たちが勝手に番人って呼んでるだけで、あれ自身に敵とか味方とか、そういう考えはないんだろうね」と言っていた。何かを守るために立っているのか、通行する者を確認するためなのか、それすらまだ分からない。ただ、必要な条件が満たされれば動き、役割が終われば止まるのだとすれば、あの存在もまたこの街を形づくっている仕組みの一つなのだろう。
ミレルはその考えに少しだけ安心していた。戦わずに済んだことも嬉しかったが、それ以上に、怖い姿をしているものを最初から敵だと決めなくてよかったことが心に残っていた。一方で、長い年月を経た石の身体が光を失い、再び静かに立ち尽くしている姿には、理由の分からない切なさも感じていた。誰にも見られない街で、あれはいったいどれほど長く同じ役割を続けてきたのだろう。もっとも、それも自分が勝手に意味を重ねているだけかもしれない。だからミレルは、その気持ちを言葉にせず、ただ胸の奥にそっと残しておいた。
そして今、四人の関心は、目の前で灯り続けている光へ移っている。
シアンは、その一点を見つめながら胸が静かに高鳴るのを感じていた。知らない場所が世界にあること自体は、もちろん分かっている。自分が見たことのない土地も、名前しか知らない国も、存在すら知らない場所も無数にある。それでも目の前の光を見ると、それまで頭の中だけに存在していた「知らない世界」が、突然こちらとつながる可能性を持った場所として感じられた。
「さっきの光、俺たちがここへ来たことで点いたと思う?」
シアンが尋ねると、ケイルはすぐには答えず、透明な板の周囲をゆっくり回りながら、光点そのものよりも、その間をつなぐ線や模様を見ていた。
「可能性はある。でも、俺たちが直接点けたのか、それとも向こうで何か起きた結果として、こっちにも反映されたのかは分からない。もしこれが地図じゃなくて、別の仕組みだったら前提から違うしね。ただ、一つ面白いのは、最初に光った点と今の点が、見える範囲では直接つながってないことかな」
ケイルはそう言いながら、板の縁へ少し身を寄せた。
「つまり、全部が一本の道でつながってるわけじゃないのかもしれない。道の網なのか、それとも場所同士が別の形で呼応してるのか……そこはまだ分からない」
シアンは透明な板を別の角度から見た。確かに、今いる場所と思われる光点からは何本かの線が伸びているが、新しく灯った点との間には、はっきりした一本の線は見えない。そのことが、かえって世界の広さを感じさせた。
セレーネは地図そのものより、周囲の空気へ意識を向けていた。街の中に散らばっていた微かな響きは、この広場へ来てから少しずつ形を変え、透明な板の光と呼応するように増減している。
「光が点くと、音も変わる」
彼女はそう言って、ゆっくり目を閉じた。
「大きな音じゃない。でも、響きが一つ増える感じがする。もともと街の中にたくさんあったものの中へ、新しい音が混ざってくるの。ただ、ここの街の響きとは少し違う」
「遠くから来てる?」
シアンが聞く。
「たぶん。少なくとも、この広場の中から出てる音じゃないと思う」
セレーネは言葉を探すように少し間を置いた。
「誰かが楽器を鳴らしてる、という感じでもない。向こうにも別の場所があって、そこが目を覚ました時に、その響きだけがここまで届いてくるみたい」
その説明を聞きながら、ミレルは新しく灯った光を見つめていた。彼女には音は聞こえないが、その点が現れてから、胸の奥にごく弱い温度の変化を感じている。先ほど街の中で感じた悲しみや孤独とは違う。もっと遠く、小さく、それでも確かに何かがこちらへ触れたような感覚だった。
「私には……少しだけ温かく感じる」
ミレルが言うと、ケイルが振り返った。
「新しく点いたところ?」
「うん。でも、これを感情って言っていいのかは分からない。前みたいに悲しいとか怖いとか、そういうはっきりしたものじゃなくて、遠くで誰かが扉を開けたような感じ」
言ってから、ミレルは少し首を傾げた。
「変な言い方だけど」
「分かる気はする」
シアンが答える。
ミレルが少し笑った。
「分かるの?」
「感覚は分からない。でも、意味はなんとなく」
その時、透明な板の別の場所で、弱い光が一度だけ瞬いた。
四人の視線が同時に移る。
光は消えなかった。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
さらに離れた場所で三つ目。
そして最後に、板の端に近い場所で四つ目の光がゆっくりと灯った。
セレーネが息を止める。
今度は、彼女だけではなかった。
街全体が、ごく低く鳴った。
耳で聞くより先に、足元から身体へ届くような響きだった。広場を囲む六本の折れた柱が一度だけ淡く光り、石畳の下を細い線が走っていく。
シアンの胸が強く高鳴った。
怖さより先に、嬉しさが来た。
世界のどこかで、何かが起きている。
しかも一つではない。
四つ。
いや、それ以上かもしれない。
自分たちだけがこの異変に触れているのではない可能性が生まれたことが、不思議なくらい彼を安心させた。
「同じことが、別の場所でも起きてるのかな」
シアンが呟くと、ケイルは少し考えてから答えた。
「あり得る。でも、そう決めるにはまだ早い。ただ、もし本当に複数の場所が同時に動き始めてるなら、これは一つの遺跡とか一つの街だけの問題じゃない。もっと大きな仕組みが動き始めてる可能性がある」
そう言ったあと、ケイルは透明な板を見ながら、わずかに口元を緩めた。
「……面倒な話ではあるけど、正直、ちょっと面白い」
シアンが笑う。
「ケイルも嬉しそうじゃない?」
「嬉しいとは言ってない」
「顔は言ってる」
「君ほど分かりやすくないよ」
ミレルが二人を見る。
「二人ともかなり分かりやすいと思う」
今度はセレーネまで笑った。
緊張の中で生まれた小さな笑いだったが、それだけで広場の空気が少し柔らかくなった。
ミレルはその瞬間、自分が四人でいることに安心しているのだと気づいた。ここへ来たばかりの頃は、未知の街そのものに圧倒され、自分が感じているものが本当に外から来ているのか、それとも自分の想像なのかさえ分からなかった。それでもシアンはすぐに答えを決めようとせず、ケイルは自分に聞こえないものを簡単には否定せず、セレーネも分からないまま感じたことを話している。
誰か一人が全部を理解しているわけではない。
それが今は、むしろ心強かった。
その時、透明な板の中心から新しい光が立ち上がった。
今までのような点ではない。
細い一本の線が空中へ伸び、やがて半透明の像を形づくっていく。
四人は反射的に一歩だけ後ろへ下がった。
線は輪郭を持ち、塔の形になる。
街の中央にそびえる、あの高い塔だった。
その周囲から複数の線が伸び、地図上のいくつかの光点へつながっている。
シアンはその像を見上げた。
「やっぱり、あそこが中心なのかな」
「少なくとも、この街の中ではね」
ケイルが答える。
「ここは地図を見る場所で、塔の方がもっと大きな機能を持ってるのかもしれない」
その瞬間、セレーネが顔を上げた。
「塔から音がする」
さっきまでとは違う。
今度は、はっきりした音だった。
低く、一度。
少し間を置いて、もう一度。
広場の壁や柱が、そのたびに微かに震える。
ミレルの表情も変わった。
「さっきより強い」
「何が?」
シアンが聞く。
「残ってるもの。悲しいというより……待ってた、に近いかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、シアンの背中にわずかな冷たさが走った。
待っていた。
誰を。
何を。
自分たちなのか。
それとも、自分たちは偶然ここへ来ただけで、街は別の何かを待っていたのか。
その違いは大きい。
好奇心のまま一歩を踏み出しそうになり、シアンはそこで止まった。
少し前なら、そのまま進んでいたかもしれない。
けれど今は、三人の様子を見る。
セレーネは塔から来る音を聞いている。
ミレルは胸元へ手を添え、自分の感じているものを確かめている。
ケイルは地図と塔の像を見比べながら、何かを考えている。
「どうする?」
シアンが聞いた。
ケイルが少し意外そうな顔をする。
「俺に聞くの?」
「三人に」
シアンはそう言って、自分でも少し笑った。
「行きたいのは行きたい。でも、みんなも行くなら行こうかなと思って」
ミレルの表情が少し緩んだ。
大きな変化ではない。
でも彼女には分かった。
シアンが、自分の好奇心だけで進むのではなくなっている。
「私は行ってもいいと思う。ただ、さっきの番人みたいなものがまた出てきても、すぐ敵だって決めないでほしい」
「分かった」
セレーネも頷く。
「私も行きたい。塔の音を、もっと近くで聞いてみたい」
最後にケイルが肩をすくめた。
「ここまで来て塔を見ずに帰る方法があるなら、逆に知りたい」
「じゃあ決まりだね」
シアンが言った。
四人は広場を離れ、塔へ続く道を進み始めた。
街の中心へ近づくにつれて、建物の形は少しずつ変わっていった。外側の区域には人が暮らしていたと思われる小さな建物が多かったが、中央部へ入るほど壁は高くなり、窓の少ない大きな構造物が増えていく。石畳の幅も広がり、道の両側には細い水路のような溝が走っていたが、水はなく、その代わりに淡い光がゆっくり流れていた。
シアンは歩きながら、目に入るものすべてへ注意を奪われそうになった。横道の奥、崩れかけた階段、壁に刻まれた見たことのない文字、閉ざされたままの巨大な扉。どれも別の問いを持っているように見え、この街だけでも何日も歩けそうだと思うと、身体が少し軽くなるような高揚感が戻ってきた。
その気持ちが顔に出たらしい。
「また笑ってる」
ミレルが横から言った。
「そんなに分かる?」
「かなり」
「面白いものが多すぎるんだよ」
「全部寄り道しないでね」
「今日はしない」
「今日は?」
「言葉のあや」
以前と似たやり取りだったが、今度はミレルも楽しそうに笑った。
セレーネはその笑い声を聞きながら、少しだけ耳を休ませた。街の音を聞き続けていると、どこまでが周囲の響きで、どこからが自分の意識なのか分からなくなりそうになる。そのため時々、知っている声へ意識を戻す。
シアン。
ミレル。
ケイル。
そして自分の足音と呼吸。
それがあると、街の無数の響きの中でも自分の位置を見失わずにいられた。
ケイルはそんなセレーネの様子に気づいていたが、何も言わなかった。代わりに歩く速度をほんの少し落とし、彼女が自然に同じ位置を保てるようにした。
誰にも気づかれない程度の変化だった。
そのくらいなら、わざわざ言葉にする必要もないと思った。
やがて通りが大きく開けた。
中央塔が、目の前に現れる。
遠くから見た時より、はるかに巨大だった。
塔の基部は複数の建物と一体化しており、その周囲を円形の広場が囲んでいる。白灰色の石壁には、これまで見たものより遥かに細かく複雑な模様が刻まれ、その大部分はまだ暗いままだった。
そして正面には、大きな扉がある。
高さはシアンの何倍もあり、中央から左右へ分かれているが、取っ手も鍵穴もない。その代わりに、扉の中心へ巨大な円が刻まれていた。
四人が広場へ足を踏み入れた瞬間、その円に淡い光が灯った。
ミレルの胸が強く締めつけられる。
セレーネの耳が動く。
ケイルが足を止める。
シアンも無意識に息を飲んだ。
塔の内部から、今までで最も深い音が響いた。
長く、低く、街の石そのものを震わせるような音だった。
そして、その響きと同時に。
扉の上部に。
八つの小さな光が、ゆっくりと灯った。
シアンはしばらく、それを見上げた。
八つ。
その数に意味があるのかは分からない。
けれど、なぜか胸の奥がざわついた。
遠い世界のどこかで、いくつかの光がすでに動き始めている。
そして今。
目の前の塔もまた、自分たちに何かを返そうとしていた。
Chapter 12
八つの灯
扉の上に灯った八つの光は、しばらく何の変化も見せなかった。
四人は円形の広場に立ったまま、それを見上げていた。塔の壁面を覆う複雑な線はまだ大部分が暗く、中央の巨大な円だけが淡い青白さを保っている。先ほど塔の内部から響いた低い音もすでに消え、残っているのは高い場所を渡る風と、どこか遠くで石片が転がる微かな音だけだった。それでも、八つの小さな光がそこにあるだけで、扉そのものがこちらを見ているような妙な緊張感があった。
「八つ、か」
ケイルが呟いた。
シアンは横目で彼を見る。
「気になる?」
「数がある以上、何かの単位ではあるだろうね。ただ、四人で来たから四つ光った、みたいな分かりやすい仕組みじゃないのは助かる。もしそうだったら、かなり嫌な感じがする」
「どうして?」
「まるで最初から人数まで決められてたみたいだから」
その言葉に、シアンも少しだけ表情を曇らせた。自分たちがここへ来たことに意味がある可能性は否定できないが、「来るべき者として呼ばれた」と決めつけるのは違う気がする。少なくともシアン自身は、誰かに選ばれたからここへ来たわけではない。森の中でセレーネが音を聞き、それを確かめたいと思ったから歩いてきた。ただそれだけのはずだった。
「八つの人じゃなくて、八つの場所かもしれない」
セレーネが言った。
彼女は扉の光を見ているのではなく、その奥から来るかすかな響きを聞いていた。
「さっき地図の上でいくつか光が増えたでしょう。ここでも同じものを示してるなら、数が人と関係あるとは限らないと思う」
「その方が自然だね」
ケイルはそう答えながら、扉へ近づいた。数歩手前で止まり、中央の円、その周囲の線、左右へ分かれた境目を順に観察していく。
「取っ手も鍵穴もない。でも、完全に壁と一体化してるわけでもない。開く前提で造られてる」
「触る?」
シアンが尋ねると、ケイルはすぐに振り返った。
「その質問をする時の顔が嫌だな」
「まだ触ってないよ」
「“まだ”って自分で言ってる」
ミレルが小さく笑った。
ここまで来て何度も同じやり取りをしているせいか、危険な場所にいるはずなのに、不思議と少し日常のような感覚が混じり始めていた。それがミレルにはありがたかった。緊張し続けていると、自分の感情とこの街から伝わってくるものの境界が分からなくなる。三人の声や表情があるだけで、自分が今どこにいて、何を感じているのかを確かめやすくなる。
ただ、扉の向こうから伝わってくるものは、これまでよりも強かった。
悲しみではない。
拒絶でもない。
やはり「待っている」という表現が一番近い。
けれど、それは誰かを恋しく待つような感情とは違っていた。もっと長く、もっと静かで、時間そのものを気にしない待ち方だった。百年でも千年でも、必要な何かが来るまでただ機能を保ち続けるような感覚があり、その途方もない長さを想像すると、ミレルの胸に説明の難しい切なさが生まれた。
「この扉、怖くはない」
ミレルが言った。
シアンが振り返る。
「安全ってこと?」
「そこまでは言えない。でも、さっきの番人に止められた時みたいな感じはないの。むしろ……開きたいのに、何かが足りない感じがする」
ケイルが扉を見たまま頷いた。
「機構としても、そう見える。中央の円だけ光ってるけど、その周囲の線はほとんど暗い。何か手順が残ってるのかもしれない」
セレーネが少し前へ出た。
「音も同じ。塔の中に響きはあるけど、途中で止まってる。旋律っていうより、次の音を待ってる感じ」
シアンは三人を見る。
そして扉を見る。
どうすればいいのかは、まだ誰にも分からない。
その状態が、以前ならもっと嬉しかったかもしれない。分からないなら試せばいい、とすぐに動いていた。しかし今は、自分だけが何かを試すより、目の前にあるものが何を求めているのかを少し見てみたいと思った。
「セレーネ、さっき橋を出した時みたいに、一音だけ鳴らしてみるのは?」
彼女は少し考えた。
「やってみてもいい。でも、同じ音じゃない方がいいと思う」
「どうして?」
「ここは橋じゃないから」
セレーネは楽器を手に取った。
「場所によって響き方が違うなら、同じ音を入れても同じ意味にはならない気がする。少し聞いてから決めたい」
シアンは素直に頷いた。
「任せる」
セレーネは扉の正面に立ち、目を閉じた。
すぐには演奏しない。
塔の奥。
壁。
石床。
風。
それぞれから返ってくるごく小さな響きを追う。
しばらくすると、彼女の呼吸がゆっくりになった。
右手の指が一度だけ動く。
そして。
一音。
柔らかく、少し低い音が広場へ伸びた。
それは橋を呼び出した時の音よりも短く、問いかけるような響きを持っていた。音は塔の壁へ触れ、広場の反対側まで流れ、そのまま空へ消えていく。
何も起きない。
数秒。
さらに数秒。
セレーネは楽器を下ろさなかった。
やがて。
塔の内部から一音が返った。
彼女が出した音とは違う。
少し低く、深い。
その後に、もう一つ。
さらに一つ。
合計三音。
セレーネの目が開いた。
「返ってきた」
彼女の顔には警戒よりも、わずかな喜びが浮かんでいた。自分の音が届き、何かがそれに応じた。そのこと自体が、音楽家としての彼女の心を動かしていた。
扉の中央にある円から、一本の光が外側へ走る。
そして。
八つの灯のうち、一つが強く輝いた。
四人が見上げる。
「一つ」
シアンが呟いた。
セレーネは少し困ったように笑った。
「私が点けた、とはまだ言わない方がいいよね」
「成長したね」
ケイルが言う。
「ケイルに言われたくない」
軽いやり取りの最中に、ミレルが突然胸元へ手を当てた。
温度が変わった。
目の前の扉ではない。
もっと遠く。
誰かのいる場所から、柔らかいものが一瞬だけ流れてきたような感覚。
「待って」
三人が彼女を見る。
「今……何か来た」
「どこから?」
シアンが聞く。
ミレルは目を閉じた。
方向という感覚ではない。
それでも、遠い。
この街の中ではない。
森のような静けさ。
古いもの。
懐かしさ。
そんな印象が一瞬だけ重なった。
「分からない。でも、この街じゃない。すごく静かな場所……森みたいな感じがした」
彼女がそう言った瞬間。
二つ目の灯が光った。
今度は、誰も何もしていない。
ケイルの顔から笑みが消える。
「向こう側から反応してる」
シアンが扉を見る。
「向こう?」
「ここにいる俺たちじゃなくて、別の場所で何かが起きた。その結果がここに出てるんじゃないかってこと」
ケイルは扉の上の光を凝視する。
「さっき地図で光が増えたのと同じなら、たぶんこの塔は一方通行じゃない」
その考えを裏付けるように。
三つ目が灯った。
次は少し強い。
同時に、塔の壁面の一部へ光が走り、空中にごく薄い像が現れた。
長くは続かなかった。
ほんの一瞬。
高い城壁。
白い石造りの都市。
そして、その前に立つ人影。
長い黒髪。
白と濃紺。
腰には剣。
オーレリアだった。
もちろん、シアンたちはその名を知らない。
像はすぐに乱れた。
「今の……人だったよね」
ミレルが言う。
「女性」
セレーネも見ていた。
ケイルは像が消えた空間を見つめながら言った。
「こっちを見てたわけじゃない。たぶん別の場所で起きてることが一瞬だけ映った」
シアンの胸が急に高鳴った。
人がいる。
遠い場所で。
同じ異変に触れている人が。
それだけのことなのに、世界が急に具体的になった。地図の光点はただの印ではなく、その向こうに本当に土地があり、街があり、誰かの暮らしがある。
そして今。
その誰かが、自分たちと同じように未知の道を見ている。
「もう一回映らないかな」
思わずシアンが言うと、ケイルがすぐ横から答える。
「今のは君のための見世物じゃないからね」
「分かってる。でも気になる」
「それは知ってる」
四つ目の灯が光った。
今度は映像より先に、石床が微かに震えた。
一定のリズム。
ドン。
少し間を置いて。
ドン。
セレーネの耳が動く。
「これは……音というより振動」
空中に新しい像が浮かぶ。
高い山。
朝の霧。
深い裂け目。
そして、その前に立つ若い男。
白や灰色を基調とした衣服。
鍛えられた身体。
胸元には祈りの道具のようなものが見えた。
リアン。
像の中の彼は、何か大きな門を見つめている。
ゆっくり息を吸い。
吐く。
その動作が妙に落ち着いていた。
像は消えた。
「また人」
シアンが呟く。
ミレルは、その青年の表情が少し心に残った。
怖がっていないわけではない。
でも恐怖に急かされてもいない。
自分の中心へ戻るように、呼吸していた。
その姿を見ただけで、ミレル自身の呼吸まで少し深くなる気がした。
「知らない人なのに、不思議」
「何が?」
「見てたら、ちょっと落ち着いた」
ケイルが少し笑った。
「得な人だね」
五つ目。
今度は唐突だった。
塔の内部を、今までより明るい光が走る。
それと同時に。
細かなリズムが広場の床へ伝わった。
一定ではない。
でも楽しげで、軽い。
何かが跳ねている。
空中に映像が現れる。
夕暮れの都市。
色とりどりの布。
古い広場。
その中央で、一人の女性が動いている。
長い青緑色の髪。
流れるような衣服。
彼女が一歩踏むたびに、足元の円形模様が光っていた。
タリア。
シアンは思わず笑った。
「踊ってる」
「そう見えるね」
ケイルも少し驚いている。
タリアは何かを起動しようとしているようには見えなかった。
ただ動いている。
身体で確かめるように。
楽しそうに。
その笑顔を見ていると、異変の映像を見ているはずなのに、不思議と恐ろしさが薄れた。
セレーネの顔にも自然と笑みが浮かんでいる。
「いいリズム」
像が消える直前。
タリアがこちらを見た。
ように見えた。
もちろん、本当に見えていたわけではないだろう。
それでも。
一瞬だけ視線が合った気がした。
像は消えた。
広場には再び静けさが戻る。
五つの灯が強く光っている。
残り三つ。
シアンはそこで、少し違和感を覚えた。
自分たちは四人いる。
しかし今見えたのは三人。
さらにミレルが感じた森の向こうに、もう一つ何かがあるとすれば。
「もしかして」
彼が言う。
「俺たちのいる場所も、向こうから見ると一つの光になってる?」
ケイルが少し考えた。
「その可能性は高いね」
「じゃあ、八つ全部が人じゃなくて……」
「少なくとも単純な人数じゃない。今反応してる場所が八つあるとか、八つの接続点があるとか、その辺だと思う」
シアンは少し安心した。
理由は自分でも分からない。
八つという数が、あまりに自分たちへぴったり重なるのは、何かに決められた物語へ入り込んだようで少し居心地が悪かった。
自分たちはただ、自分で選んでここへ来た。
その感覚を失いたくなかった。
その時。
六つ目の灯が光った。
これまでとは違い、映像はすぐには現れなかった。
代わりに。
風が吹いた。
塔の前の広場にいるはずなのに、突然、森の匂いがした。
湿った土。
苔。
水。
そして、月明かりを思わせる冷たい空気。
ミレルが顔を上げる。
「さっき感じた場所」
セレーネも静かに耳を澄ませる。
やがて空中に像が現れた。
深い森。
二本の古い石柱。
その前に立つ女性。
長い銀白色の髪。
細いエルフの耳。
淡い青銀色の瞳。
ルナリア。
彼女は何かに驚いているというより、遠い記憶を見つめるような静かな表情で、光の向こうに浮かぶ街を見ていた。
シアンは妙な感覚を覚えた。
彼女は今を見ているのに、同時にもっと昔の何かを見ようとしているように見える。
像は短かった。
それでもミレルには、なぜか一番長く感じられた。
ルナリアの姿が消えると、胸に小さな寂しさが残った。
「今の人、知ってる場所を見てるみたいだった」
ミレルが言う。
「知り合い?」
ケイルが聞いた。
「違う。そういう意味じゃなくて……初めて見るはずなのに、懐かしそうだった」
シアンは消えた像の場所を見つめた。
自分なら初めて見るものを前に、たぶんあんな顔はしない。
もっと嬉しそうにする。
あるいは、すぐ近づこうとする。
同じ未知を前にしても、人によってこんなに違うのか。
それが面白かった。
六つの灯。
残り二つ。
四人はしばらく待った。
何も起こらない。
風が戻る。
塔の低い振動も弱くなる。
「止まった?」
シアンが尋ねる。
セレーネは耳を澄ませたまま首を傾げる。
「たぶん」
ケイルは扉の光を見ている。
「全部が一度に動くわけじゃないのかも」
「あと二つは?」
「眠ってるとか、壊れてるとか、まだ条件が揃ってないとか。考えようと思えばいくらでも考えられる」
その言葉に、シアンは少しだけ残念な気持ちになった。
あと二つ。
何があるのか見たい。
その好奇心は明確だった。
しかし同時に、自分たちは今、十分すぎるほど多くのものを見たとも思う。
遠い場所。
知らない人々。
同時に目覚めている古い道。
これだけでも、昨日まで知っていた世界とは大きく違う。
そして。
扉が動いた。
最初は音だけだった。
石と石が長い時間ぶりに擦れ合う、低く重い音。
四人の身体が一斉に緊張する。
中央の円が二つに分かれる。
巨大な扉が、左右へゆっくりと開き始めた。
内部は暗い。
しかし完全な闇ではない。
遠く。
塔の中心と思われる場所で。
細い光が垂直に伸びている。
その周囲には、いくつもの小さな光が漂っていた。
セレーネが息を飲む。
今度は彼女だけではない。
シアンにも聞こえた。
音。
一つではない。
いくつもの低い響きが重なり、塔の奥からゆっくりこちらへ流れてくる。
まるで。
長く眠っていた場所が、初めて呼吸を始めたようだった。
シアンは扉の向こうを見た。
胸が高鳴っている。
怖い。
それでも、行きたい。
横を見る。
ミレルも緊張した顔をしているが、逃げる様子はない。
セレーネは音を聞いている。
ケイルは扉の構造を見ながら、すでに内部の出口まで探していそうな顔をしていた。
シアンは少し笑う。
今度はミレルに言われる前に、自分で分かった。
「行こうか」
誰もすぐには答えなかった。
そして、その短い沈黙のあと。
三人がそれぞれ小さく頷いた。
四人は、ゆっくりと塔の中へ足を踏み入れた。
背後では、八つの灯のうち六つが静かに光り続けていた。
残る二つは。
まだ暗いままだった。